在日朝鮮人運動史の中のウトロ |
既報のように、総連京都府本部では「ウトロ同胞支援募金運動」を大衆的に推し進めている。ウトロ同胞への支援は、日帝の植民地支配下で半ば強引に連れて来られ過酷な労働と生活を強いられた同胞たちの「戦後補償」、過去清算の一環であり、同胞の生存権を守るためのたたかいである。「ウトロ問題」が発生した歴史的背景について紹介する。【京都支局】 たたかいの歴史
ウトロの歴史は運動の歴史でもある。それは差別と抑圧に対するたたかいの歴史であるとともに、同胞組織が歩んできた歴史でもある。 1945年8月15日、解放を迎えたウトロ同胞たちの歓喜の陰で、飛行場建設事業を請け負っていた国策会社幹部らは資料を持ち出し、ウトロから逃げ出した。これにより、同胞たちは何の補償もなしに、「失業者」として放置されたのである。 解放の喜びに浸るのも束の間、同胞たちは深刻な生活苦に直面する。飛行場建設跡地は米軍により接収され、駐日米軍駐屯地が設置される。同胞たちが暮らしている飯場(現在のウトロ集落)もその接収対象となっていく(米軍が接収した地域は、現在の陸上自衛隊大久保駐屯地)。 しかしウトロの同胞たちは、どん底の中でも団結してたたかい、そしてたくましく生活の基盤を築いていく。 ウトロ集落には、解放直後にほかの地域でもそうであったように、民族学校(国語講習所)が45年9月に自主的に建てられ運営されていく。ウトロの中で読み書きができる同胞が教師を務めた。「学校」とは名ばかりの施設ではあったが、当時通った同胞たちによると「素晴らしい」学校だったという。
民族学校が運営された建物が現在の総連南山城支部であり、当時の朝聯(在日本朝鮮人聯盟)の事務所でもあった場所である。現在、支部の前には住民たちが「ウトロ広場」と呼ぶ広場があるが、ここは民族学校の運動場であった場所である。 同胞たちは朝聯を中心に固く団結し、米軍が銃剣を振りかざし、飯場跡からの立退きを武力により威嚇してきてもひるまずにたたかい、生活拠点のすべてであった集落を死守する。当時、米軍は同胞に向かって威嚇のために実弾射撃を行い、数人の同胞たちが被弾、負傷した。 朝鮮戦争の前年である49年、朝聯組織と民族学校は強制的に解散させられた。民族学校が強制閉鎖された時、教壇を叩きながら泣いていた先生の姿が今も忘れられない、と当時を記憶する同胞は話す。 しかしウトロ同胞たちは、戦争勃発後も祖国防衛のための闘争を繰り広げる。集落に隣接する米軍駐屯地から朝鮮への軍需物資輸送等がなされていたことから、そのたたかいは熾烈なものであった。そのような中、ウトロは戦争中の52年、二度にわたり警察の強制捜査を受けている。容疑は「スパイ容疑」である。 55年の総連結成により、運動は新しい段階に進むことになる。朝鮮民主主義人民共和国の国際的権威と同胞愛あふれる海外同胞施策のもと、世界でも類をみない海外同胞運動の歴史を切り開いていくことになる。 60年代中盤には支部の合併などがなされ、現在の南山城支部となり、活動の拠点をトロに移すことになった。当時、南山城地域には宇治支部、綴喜支部、相楽支部の3支部があったが、これらが統合されて南山城支部となった。現在の支部事務所は、当時までは伊勢田分会事務所であった。 南山城地域での在日朝鮮人運動においてウトロは常にその中心であり、また先頭に立っていたといえる。 土地問題の発生 土地問題が発生したのは、まさに日本がバブルに突入していった時期である。 87年の転売事件に「ある住民」が関与したこと、また最初に地上げ会社である西日本殖産を作ったのが「ある同胞団体の本部代表」であったということは、言い訳のできない事実であり、まことに遺憾であるとしか表現ができない(転売事件に関与した住民も、「ある同胞団体」の支部役員であった)。 土地問題・転売事件に「同胞」が関与したことは否定できない事実ではあるが、その最も大きな責任を持ち、決定的な役割を果たしたのは日本行政と日産車体であると言わざるをえない。 転売と関連して最初に行われた法律的対応は86年12月、当時の地権者であった日産車体から行政(宇治市経由で京都府)へ提出された国土法の届出である。当時、日産車体は届出書類にウトロ地区の現況を「空地・遊休地」として提出し、行政はこれを「認めた」のである(自分たちが飛行場建設に動員した朝鮮人がそこに住んでいることを知っていながらである)。この国土法の届出が受理されたことにより、後の転売は法律的に許可されたことになった。 西日本殖産が設立されたのは翌年87年4月、移転登記が完了するのは同年6月である(国土法の時効は91年にすでに成立している)。 こうした事実は、転売事件の「シナリオ」を書いたのが一体、誰であったのかを如実に物語っている。そしてこの事実は、歴史的に繰り返されてきた「日帝」の卑劣な手法そのものである。 そして忘れてはならないのは、ウトロが本来、軍事飛行場建設に動員された朝鮮人労働者たちの飯場であったという歴史的経緯である。戦争中、ウトロの土地を所有していたのは当然のごとく日本の行政であった。戦後、行政が土地の所有権を「民間会社」に売却したところから「ウトロ問題」は始まっているのである。当時、ウトロの同胞たちには「当然」その事実を知らされることはなかった。 現在まで日本各地でいわゆる「立退き問題」が提起された同胞集落は数多くあったが、そのいずれもが国有地などの公有地であった。公有地の場合、「立退き問題」は起こっても「訴訟」が起こされた事はなく、すべて安価による払い下げか、移転などにより解決している。 裁判闘争 87年、転売事件当初の西日本殖産の設立者(=ウトロ地権者)であった、「ある同胞団体の代表」は、西日本殖産の会社ごと第三者へと転売し、その責任を回避する。 新たに西日本殖産を買い取った地権者は89年、ウトロ住民全世帯を対象に「立退き訴訟」を起こす。司法の場において、歴史問題は取り扱われることすらなかった。単なる民間対民間の所有権訴訟としてのみ取り扱われた。ウトロ住民たちは法廷で、過去の歴史について主張したかったが、そのような場面すら用意されることはなかった。 ウトロ土地問題が法廷に持ち込まれたことにより、総連組織はウトロ支援活動の基本を「側面支援」に転換することになる。 土地問題の発生と時を同じくして、日本の市民たちにより支援組織「ウトロを守る会」が結成される。日本人支援者による地道な支援により、ウトロを支える支援の輪は徐々に広がっていき、強制執行を阻止するうえにおいても大きな力となる。また日本人支援組織がウトロ問題を国連(人権委員会)においても訴えたことにより、01年8月には日本政府への勧告へとつながった。 土地問題が発生してからすでに20年という歳月が流れたが、これは決して短い期間ではない。03年には新たに「ウトロ問題を広げる会」という支援組織も結成された。ウトロの同胞たちを支えてきた日本市民たちの姿を同胞社会は決して忘れてはならない。 00年末、最高裁の棄却決定によりウトロ同胞たちは全面敗訴となった。 日本の司法の判決は、「ウトロ住民は不法占拠者である。すみやかに建物を壊し、土地を明け渡せ」というものであった。係争中にもウトロ同胞たちと同胞組織は幾度となく、行政への要望を行ってきた。しかし、行政は「歴史問題は65年の『日韓協定』により完全かつ最終的に終わっている」とし、一切の歴史責任を回避し続けた。 司法による救済の道が閉ざされたことにより、ウトロ住民たちがウトロの地を守り、生きていくために残された道は、「土地を買い取る」以外にはなくなったのである。 絶望からの再起 敗訴が確定した直後から、地権者からの「立退き通告書」が数回にわたりウトロ全住民宛に送られてくるようになった。まさに「脅迫状」そのものであった。しかし、どこにも行くあてのない同胞たちが多数いるウトロ住民たちは、「団結」しながら踏ん張り続けた。 そんな中、大きな転機が05年に訪れる。04年秋、南朝鮮で行われた「居住権学会」に日本人支援者と共に参加し、ウトロ問題を訴えたウトロ同胞たちの姿が南の社会で大きく取り上げられたのである。その背景には、「親日派清算」など過去の「歴史見直し」の機運が高まっていたことがあった。南の活動家たちにより、ウトロ支援の世論と運動が05年春から一気に高まっていく。 65年の「日韓協定」により「歴史責任」をうやむやにしてしまった南朝鮮当局に対して、その歴史的反省を求めると同時に、ウトロを守るための財政支援を求める世論が民間募金運動の広がりの中で大きく高まっていくことになる。民間NGO団体が行った民間募金には、現在まで約15万人が参加し、その金額は6000万円を超えている。民間募金は現在も続けられている。南の活動家たちと市民たちの運動の高まりにより、昨年末南朝鮮当局はウトロ財政支援を正式に可決した。 総連組織は04年から町内会役員を兼任しながら、町内会のさまざまな活動を支え、団結を強めるために力を尽くしてきた。また、日本の行政への要望活動や交渉を継続的に展開し、南のNGO活動家たちと共に、この間のウトロの運動を支えてきた。 ウトロ町内会長を20年間続けてきた金教一さんは、「ウトロが今までがんばってこられたのは、多くの方たちのあたたかい支援があったからだ。この間、絶望的にならざるをえない場面が数え切れないほどあった。今日のような時を迎えることができたのは、本当に奇跡のようなこと。この間にウトロを支援してくださったみなさんへの感謝で胸がいっぱいだ。とくに、総連が本当に厳しい状況の中でもウトロを支援する募金運動を展開してくれたことに対し、ウトロの住民は心からありがたく思っている」と話す。 町内会長のアボジは、軍事飛行場建設に動員され過酷な労働を強いられた当事者である。 アボジは解放後まもなく事故により他界し、オモニが女手一つで育ててくれた。1世が歩いてきた苦難に満ちた過去を思いながら金会長は次のように話す。 「ウトロの歴史はたたかいの歴史であったし、私たちのアボジ、オモニたちの血と涙の歴史だ。その歴史は同胞組織の存在を抜きには語れない。時代が流れ、北南関係も含め私たちを取り巻く政治状況なども大きく変わった。同胞社会全体がそうであるように、ウトロの住民たちの多くが『韓国籍』を取得しているが、朝聯時代から、私たちの心の中心にある民族心と愛国心はまったく変わらない。一昨年に脳梗塞で倒れた金善則顧問をはじめ、総連の活動家たちが半世紀にも渡り、ウトロのため、同胞のために尽力されてきた歴史を私たちは決して忘れない。昨年12月、集会に参加された金顧問がも語っていたが、本当にこれからも一生懸命がんばってこのウトロを守っていく決意だ」 私たちの歩みは、その一日一日が歴史である。 「私たち同胞組織の使命は、同胞たちの生命と財産を守ること。そしてそのことは過去の歴史問題と常に直結している。過去の歴史を正すことができなければ、本質的な意味で同胞たちを守ることはできないし、本当の未来は築けない。ウトロ問題の最も重要な本質は歴史問題であり、それは即ち1世たちの『恨』を晴らすことだ。土地問題の解決はその長い道のりの中のひとつ。私たちには命をかけてでも、また代を継いでも、果たすべき使命が残っている」 倒れた金顧問の後を継いで奔走する、総連支部の現役活動家の言葉である。 [朝鮮新報 2008.2.27] |