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〈解放5年、同胞演劇事情−中〉 各地に自立劇団

青年たちが先頭に

 解放後の同胞演劇運動は、1948年に入って盛んになったといわれる。

 その前に、47年の青年たちの主な演劇活動について民青第2回臨時大会(47年10月)で民青の活動の一環として総括されているので、そこから活動内容をみる。

 その「演劇団組織」によれば、東京では移動啓蒙劇団を編成して5月19日から6月19日まで各支部を巡回して第1回巡回公演を行った。15日間で30回公演、観客数は延べ9400人にものぼったという。兵庫でも移動演劇隊を組織、4月11日から5月10日まで巡回上演した。島根県では同胞慰安隊を組織し、演劇「社会の苦情」を5回公演した。神奈川県では民青演芸倶楽部を組織して演劇「新アリラン」「帰ってきたアボジ」「興甫伝」「解放の日」などを上演した。京都では慰安演芸大会を学同、婦同と共同主催で8月16日に開催、音楽、舞踊、演劇などを上演した。また三多摩、群馬、静岡などで演劇団を組織中とある(「活動報告書」)。

国連の風刺劇も

希望座を紹介する民青時報の記事(48年10月10日付)

 さて48年の演劇運動を盛んにするには、民青東京・荒川のメンバーらがその嚆矢となった。メンバーらは張飛、金敬在の指導を受け3月27日に正式な演劇研究会を発足させ、その後荒川演劇班として活動した。彼らは神田共立講堂での民青結成1周年記念公演出演、合唱及び演劇「パンは誰のものか」「国連朝委風刺寸劇」などでやんやの拍手喝采を浴びたという。演技は稚拙で内容も不十分であったが民青の全体的な運動と結びつきその健康さが大衆を歓喜させたという。

 荒川演劇班の結成後に、神奈川、大阪、神戸、福岡各県に自立劇団が誕生し、8.15解放記念日では全国各地で前夜祭がいっせいに挙行され、日本の民主青年との文化交歓も行った。

 民青中央は、当面するべきことは新しい青年演劇人を養成し前記のような問題点を克服することであり、そのような諸目標を完遂するために、専属の中央劇団を組織することである、と判断した。

 8.15文化祭を契機に話がまとまり、8月23日民青東京本部で準備会が持たれた。準備会には東京に住む文化人を中心に民青総本部、東京本部の文化関係者が集まった。新しく生まれる劇団の名前を希望座と呼び、民青総本部直属として文化組織、自立劇団の養成指導、地方劇団の指導、専門演劇人の養成などを目標とした。

文化、歴史を学んで

 当時出色であったのが、民青東京本部演芸隊と東京・荒川演劇班などで慰問演劇隊を構成、5月23日から約2週間、第1陣、第2陣と分けて神戸、大阪各地で演劇「我々は闘う」、舞踊、合唱などを披露して教育闘争を展開する阪神地方のたたかいを激励したことであろう。新聞民青兵庫時報(48年6月1日付)も案内を出している。

 希望座の第1回公演は民青第3回全国大会開催中の10月1、2日、青年文化の夜で「黄昏」「鞭打たれる家」「北緯38度線」各1幕を上演し、多くの成果を上げた(解放新聞48年10月6日付)。

 大阪では49年1月5日に鶴橋小学校で文化祭演劇コンクールを開催、朝鮮中学の「土」、民青東成支部の「現代青年」、民青高等学院の「望郷歌」などが上演され、不足点はあったとはいえ、コンクールは充分の成果があった(新聞民青大阪49年1月25日付)という。

 49年2月から広島県内各地で活動した広島朝鮮少年団演劇班も大きな反響を呼んだ。全部朝鮮語で4種の演劇などを通して、民族文化や今日の祖国情勢などを理解させ、父母たちからは早く朝聯の学校へ通わせてみたいとの意見が続出したという(朝聯広島時報49年3月10日付)。

 民青結成2周年記念大会(3月6日、大阪)第2部での民青東京文工隊の「桃の花咲くころ」も大きな反響を呼んだ。

 朝聯川崎文工隊組織は4月26日、花月劇場での第1回公演で「建設劇団」と命名され多大な評価を受けたという。昼夜2回にわたる演芸では、民謡、歌謡独唱、合唱、喜劇「しゃべれない大人」「生き馬の目を抜く世の中」「敵の境界線」などが披露された(解放新聞49年5月6日付)。

 以上のような演劇活動は、なによりも同胞、青年、学生たちを教育、啓蒙するうえで大きな意味を持った。演劇を観た観客からは、米侵略軍、李承晩打倒、祖国統一のためにたたかおうなどの声援があったという。また、ウリマルや文化、歴史を学ぶ必要性、切実性を呼びかける上でもよい刺激を与えたという。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2008.1.25]