〈解放5年、同胞演劇事情−上〉 「芸協」の結成 |
自立演劇誕生までの苦労 解放後の在日朝鮮人演劇運動を省みると、直近の活動を除いて、劇団「モランボン劇場」、在日朝鮮中央芸術団演劇部、在日朝鮮演劇団などの活動が思い当たる。 解放5年の在日朝鮮演劇運動を朝聯、民青などの会議録と当時の新聞報道、そして在日朝鮮演劇運動過程をまとめた唯一の記録ともいえる呂雲山著「在日朝鮮人演劇運動日誌 1945−63(資料収集、整理)」「在日朝鮮演劇運動日誌(U)64−74」と「在日朝鮮文化年鑑49年度」などを参考にして整理してみたい。 解放前後の演劇状況
解放以前、植民地時代にも在日朝鮮人の演劇運動はあったそうだ。「3.1劇場」「朝鮮芸術座」「朝鮮学生芸術座」「日大形象座」などがあり、上記「文化年鑑」によれば全時期を通して常に朝鮮演劇の先駆的役割を果たし、48年まで朝鮮演劇界の名声をはせた指導的人物の大部分を輩出したという。また、日本人の演劇団体「築地小劇場」とともに活躍したという。 解放を迎えるとそのうち「朝鮮芸術座」の金斗鎔、金坡禹、張飛、「新協劇団」の朴義遠などが残って、演劇人の大多数は帰国した。 戦後の混乱とあらゆるものが不足していた解放直後の同胞社会で演劇運動はあったのであろうか。 当時の強力な同胞団体であった朝聯は文化活動方針として、本連載の「解放5年、同胞美術事情(上)」で引用したように、民主主義民族文化の確立をはっきりと打ち出している。しかし演劇運動に関しては同胞の文化水準向上、大衆文化運動のなかでも具体的な活動方針、対策などを立てた痕跡はみられない。例えば、朝聯第4回全体大会の「文教局活動報告」(47年10月)の中で大衆芸能運動を総括したところがあり、演劇に関しては各種記念行事に余興的な役割をしたが専門的公演は見ることができなかったとしつつ、専門化させようという論議もみあたらない。 それでも人の住む社会に歌や踊りが必ずあるように、同胞たちは演劇活動を模索しすすめようとした。 解放後、日本に残った演劇同人たちは即時活動を開始し、金斗鎔、張飛、朴義遠を中心に在日本朝鮮芸術協会(芸協)を結成する。芸協は、第1回公演として46年6月東京・神田共立講堂で申鼓頌作「結実」第1幕、また申鼓頌作「鉄鎖は切れた」第1景を朴義遠と張飛の演出、許南麒のセットで上演した。しかし「哀れな失敗」と終わる。その後スタッフらは、在日本朝鮮学生同盟文化部の招請で学同文化部員を演技陣とする金史良作「ぷっつりの軍服」(全1幕)を共立講堂で10月に上演した。しかしこの公演もそれほど成功した公演にはならなかった。 芸協の第1回公演について後援した朝聯は、観客が少なく内容、技術で未熟な点が多かったと指摘している(朝聯第3回全体大会の文化部活動報告)。 その芸協の問題点は、崔旴均によれば@大衆を組織的に動員する力もなかったし朝聯や民青の機関と分離され運動が展開されたA演技人たちがごく狭少な専門人だけで新たな向上発展を見ることがなかったB財政難であった、という(解放新聞48年10月6日)。 大衆の中での運動へ 専門演劇人を中心とした演劇運動は大きな成果を上げることなく途絶状態に陥ってしまったわけであるが、その「失敗」から公演中心の演劇人の自慰的運動から大衆の中の演劇、大衆の中に入った演劇、大衆の中で創造する演劇つまり自立演劇の方向に向ったという。 自立演劇ともいうべき同胞大衆に根付いた演劇運動を目指して、専門家や経験者の体験と教訓を踏まえてとくに青年、学生たち、青年組織であった民青や学生団体であった学生同盟などが努力した。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2008.1.18] |