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〈人物で見る朝鮮科学史−44〉 世宗とその時代B

不敬罪に問われた「最高の技術者」

徳寿宮の自激漏

 東洋では水時計を「漏刻」と呼んでいたが、その原理は「播水壺」を高い所に置き、そこから水が一定の量と速さで流れ落ちるように工夫し、「受水壺」に溜まった量で時を計るというものである。この時、多くの場合は受水壺に「浮箭」と呼ばれる木製の浮きを置き、それが上に昇ってくる高さで時間を知った。蒋英実が1434年6月に製作した「自激漏」はその過程を自動化し、そこに取り付けられた人形が鐘や太鼓、銅鑼を打つようにして時刻を告げるようにしたものである(ただし、壺に水を組み入れるのは人力による)。これは、元代の順帝の命によって造られた水時計とアラビアの水時計の影響を受けているものの、それを飛躍的に発展させたものであった。そして、7月に自激漏は景福宮南側の「報漏閣」という建物に置かれ、公的標準時計として使用された。世宗はこの水時計は蒋英実でなければ造りえなかったと高く評価し、正4品「護軍」という官職を与えている。蒋英実亡き後は修理を行えるものがおらず1455年に使用が中断されたが、その後、中宗31年(1536年)に新しい自激漏が製作され、その一部が現在ソウル徳寿宮に保管されている。

 さらに、蒋英実は1437年に「玉漏」を完成させている。やはり水時計の一種で自動的に時刻を知らせるのは自激漏と同じであるが、高さ7尺くらいの紙で山を作り、太陽を表す金色の球が一日に一周するようになっていた。それも、冬至や春分など季節に合わせて日が昇り沈む高さと時間が変化するようになっていた。その機械の部分は「玉漏機輪」と呼ばれ外からは見えないようになっていたが、別掲図は平壌で出版された「朝鮮技術発展史」第4巻に掲載されたこの装置の想像復元図である。数字の1〜9が水時計の部分で、その上下運動を滑車によって回転運動に変換し複雑な動作を実現させている。この玉漏もほとんど蒋英実一人によって考案されたもので、その後二度と製作されることがなかった。その完成を心待ちにしていた世宗は、自身の寝所の近くに「書経」のなかの「欽若昊天敬授人時」から名をとった「欽敬閣」を建て玉漏を設置した。

 このように世宗時代の輝かしい科学技術発展の一翼を担い従3品「大護軍」まで昇りつめた蒋英実であるが、1442年に突然の不幸に見舞われる。彼の監督下で製造された王の輿が破損し不敬罪に問われたのである。もともと、官奴出身の彼を重用することに反対の者も多く、世宗も鞭打ち200杖の刑を100杖に減刑するに留まった。英明な王といわれた世宗であるが所詮は封建社会の統治者であり、彼から見れば蒋英実は一介の技術者にすぎなかったのか? あるいは、王への不敬というのはそれほどに重い罪なのか、以後、蒋英実の名前が歴史の舞台に登場することはなかった。(任正爀、朝鮮大学校理工学部教授)

[朝鮮新報 2007.12.7]