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「耳塚から朝鮮通信使へ」

朴鐘鳴さん 京都でシンポ開催 歴史学者

 24日、京都で開かれる「鼻塚(耳塚)から朝鮮通信使へ−朝鮮半島・日本・東アジアの平和と友好を考えるシンポジウム」(詳しくは6面参照)の実行委員の一人。

 なぜいま、「耳塚」と「通信使」なのか。

 「耳塚は秀吉の命令に従い、日本軍が朝鮮人の鼻や耳をそいで戦功の証として、1597年、京都の方広寺の西にそれらを埋めて塚を築造。その数は10万人分を超えたと言われる。それからまもなく、豊臣政権を倒した徳川幕府は、平和と友好を基礎として朝鮮王朝と国交を回復し、1607年には朝鮮通信使が日本に派遣された。今年はそれから400年、塚築造から410年になる」

 シンポでは、秀吉の朝鮮侵略の全体像を明らかにするととともに、平和と友好の象徴であった朝鮮通信使来聘が持つ歴史的、現代的意義を考察してみたい、と意欲的に語った。(粉)

[朝鮮新報 2007.11.19]