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〈遺骨は叫ぶH〉 室蘭日本製鋼所 3千人中千人が逃亡、辛い強制労働

寮ごとに下士官あがりの指導員置き徹底監視

光昭寺に安置されている3人の遺骨(蔡鴻哲氏撮影)

 室蘭市は、北海道では最大の軍需工業の基地であった。その中心になっていたのが、日鉄輪西製鉄所と日本製鋼所であった。この二つの企業は、日露戦争後に発足したが、さらに大きく発展させたのは三井であった。当時、北海道炭鉱鉄道株式会社を支配するようになった三井は、その「鉄道を政府に売って得た3千万円の資金を、一部は汽船の購入と輪西製鉄所に投資し、残りの一半を日本製鋼所の相談に向けた」(「室蘭発達史」)のである。

 「室蘭製鋼所は、その工事に使役せる土工を、既に200余名も殺したるが、この工事が完成までには、凡そ千余名を殺す見込みなりという」(東京社会新聞・1908年5月5日付)記事にも見られるように、北海道の工業化は、多くの人命の犠牲の上に進められた。

 二つの企業は、満州事変の直後から大きく発展するが、日中戦争の頃から労働者が不足した政府は「国家総動員法」を公布した。太平洋戦争の開戦でさらに人手不足が深刻になり、日鉄輪西製鉄所では、1942年から3年間に訓練生という名目で、10回にわたり朝鮮人の青年を強制連行してきた。第4期生として1943年に連行された崔啓光さんはこう語る。

地崎組の寮が建っていた跡地

 「私の郷里の慶尚南道に、日鉄は労務課の整員係というのを常駐させて募集をやっていたんですが、その対象は、郡当局が推薦する人たちで、大体小学校ぐらいは出ている人を、郡ごとに100人から300人ぐらい選ぶ。それを一期ごとに300人ずつ、まとめて10期まで連行したわけです。輸送中は、監視つきで、日鉄に着くと基礎訓練を受けるんですが、指導員は軍隊の下士官あがりの日本人で、行進、銃剣術、食事ごとの『皇国臣民の誓詞』暗誦、訓示などがその内容でした。その後、各職場に配属された」

 朝鮮人は協和寮に入ったが、窓には桟があり、寮ごとに2bほどの板塀で囲ってあった。部屋は、10畳間に18人が入れられたので、身動きができないほど狭かった。床は板張りで、真ん中にストーブがあり、両側に三段ずつ棚が作ってあり、そこで寝た。寮ごとに6〜7人の下士官あがりの指導員がいて、朝晩に点呼があり、交代で監視した。食事は、1943年頃は、米と麦の飯が出たが、翌年になると、米は見えなくなり、しかも盛り切り一杯なので、空腹に悩まされた。また、日鉄は、「技術を覚えさせる」という触れ込みで、日本へ連れて来たが、重労働をさせるだけで技術らしいものは身につけさせなかった。

 「重労働で食事が少ないので、3千人連れてきたのに、千人くらいは逃げましたね。寮から逃げるのは難しいので、職場から普段着に着替えて逃げていたね。だが、ほとんど捕まえられ、桜の棒で死ぬほど殴られた後、芦別の爐材工場(製鉄用のレンガを焼く工場)に送られ、死ぬような強制労働をさせられたそうです。あちこちの職場で死んだり、ケガする人も随分出たようで、私は操車係で手旗を振っていたが、汽車に轢かれて死んだ人もいました。仏坂にあった鉄道工業で、6人の朝鮮人が虐殺されたという話も聞きました。」(崔啓光)

 日本製鋼所室蘭製作所に、朝鮮人連行者がきたのは、1944年11月頃で、構内貨車の積卸作業をさせたと、当時の北海道新聞(11月12日付)に載っている。人数は405人とほかの資料にあるが、そのほかのことはわかっていない。

 また、戦時中の室蘭港で港湾荷役として、朝鮮人連行者を使ったのは日本通運室蘭支店である。1943年から3回にわたり、朝鮮から直接連行してきた。全部で160人だが、そのほかに協和会手帳を持っていない人たちが、90人ほど来た。日通室蘭支店長が、当時の日本人としては変わった人で、「本人には通せないが、日通が責任を持って預かるなら出そう」と手帳を出したので、それを聞いた人たちが追及を逃れて集まってきた。日通には全部で250人ぐらいの朝鮮人がいたが、「年齢は、16歳から40歳ぐらいで、料亭を買い取って寮にし、日鉄よりは待遇がよかったんです。それでも逃亡者が出たし、病死した人もいました。」(白善鍾)という。

 室蘭ではこのほかに、千島に軍事基地を建設するために朝鮮人狩りがあった。北海道よりさらに北の千島には、行く人がいないので、夜中に寝ているのを5、6人で汽車に乗せた。車両の出入口に監視が何人もいるので逃げられなかった。留萌まで汽車で行き、船に乗せられて樺太(現サハリン)に行き、それから千島に運ばれた。どれだけの人数が運ばれたのか、敗戦後にどうなったかは知られていないものの、数百人は行ったと伝えられている。

 室蘭は、敗戦の年の1945年7月15日に、連合軍軍艦ミズーリ号から艦砲射撃を受けた。日鉄輪西製鉄所の朝鮮人寮のそばにも落ちたので、5人の朝鮮人が爆死した。敗戦後に帰国者と共に、その時の遺体5体が釜山へ帰るはずだったが、1体は、犠牲者の従弟に託され、4体は、室蘭へ持ち帰られた。その後、1体は遺族が判明して返還されたが、残りの3体は、光昭寺にいまも安置されている。敗戦から62年が過ぎているのに。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.11.19]