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〈遺骨は叫ぶG〉 古川鉱業足尾銅山 食事は鰯と唐辛子味噌、栄養失調者も

「宮城遙拝」強制、目を動かすと殴打

小滝坑の入口は固く閉じられている

 日本の公害の原点と言われる栃木県の古川鉱業足尾鉱業所(現日光市足尾町)は、閉山して35年の歳月を経た今も、精錬所の煙害などで荒廃した風景に息を呑む。日本のグランドキャニオンと呼ばれる松木渓谷は、一木一草もない地肌を露出させている。銅山の被害に苦しむ、農民の惨状を訴えた田中正造などの運動はいまでも知られている。だが、足尾銅山に強制連行され、犠牲になった朝鮮人、中国人のことは知られていない。

 足尾銅山は、1610年に2人の農民が、備前楯山で銅鉱を発見し、幕府の直山となった。1877年に古河市兵衛の経営となり、銅山や銅精錬事業に入れて、精錬所が新設された。

 このころから精錬所から出る鉛害が農民を苦しめ、渡良瀬川の鉱毒問題で、田中正造代議士が帝国議会で抗議の質問を行った。

 だが、中国侵略を進める日本は、1937年に日中戦争へ突入し、不況で休んでいた工場からも煙が上がり、失業者たちは軍隊や軍需工場に動員された。足尾銅山でもこの体制にならって、足尾銅山鉱業報告会が作られ、各坑課ごとに増産運動が行われた。1935年当時の足尾銅山の従業員は、6596人で、全部が日本人であった。しかし、「戦争が進むにつれ、職場の中堅層は、徴兵に狩り出され、あるいは、足尾より労働条件の良い軍需産業へ転職する」(「足尾銅山労働運動史」)人が多くなり、労働力不足が深刻になった。その不足分を補うため、1940年から朝鮮人連行者を銅山に入れ、主に坑内の運搬夫として使うようになった。

全盛期には約1万人が住んでいた。この裏に興亜寮があった

 栃木県内には、15事業所に連行しているが、足尾銅山が栃木県に提出した名簿では、1940年から1945年8月までに朝鮮人は、2416人が連行されており最も多い。足尾ダムの下にある高原木収容所に約800人、渡良瀬川に沿った砂田の近くの収容所に約800人、庚申川上流の小滝坑跡のすぐ南に興亜寮があり、朝鮮人約800人と、257人の中国人連行者が収容されていたという。高原木収容所には、家族持ちも入っていたが、興亜寮のように、朝鮮人と中国人を一緒に収容しているのは全国的にも珍しい。普通は、2〜4キロメートルほど離して接触させなかった。寮は3階建てで、腰をかがめないと歩けなかった。日本人の寮長がいて、その下にいる数人の監督も全部日本人で、いつも桜棒を携帯し、気にくわない朝鮮人がいると殴った。

 太平洋戦争の時の足尾銅山には、4つの坑山があった。通洞坑(大口坑ともいった)本山坑、箕の子坑、小滝坑で、この4つの坑山を総称して足尾銅山といっていた。この坑内で朝鮮人は働かされた。作業現場では、班に分け、一班に日本人と朝鮮人が5〜6人で、班長は日本人だった。連行された朝鮮人は、高齢者で71歳、最も若い人で15歳以下の少年が3人もいたが、この人たちも一人前の仕事をさせられた。

 仕事は、一日3交替だった。朝は5時前に起きて準備をし、「集合」の号令がかかると広場に出て整列した。「宮城遙拝」のあと、不動の姿勢をとった。この時に目の玉を動かしたのを見られると、木刀のような棒で頭を殴られた。食事は鰯とトウガラシの缶やトウガラシ味噌などをオカズにしていたが、それも次第に少なくなった。

 ご飯は弁当ではなく握り飯だったが、それが小さいのでいつも空腹だった。腐った芋などが落ちていると、拾って食べ、腹をこわした。仕事は割り当てなので、全部が終わらないと帰れなかった。しかし、空腹では仕事が十分にできないので、帰りが夜中になることもあった。栄養失調で倒れる人も多く、大根みたいに足がビーンと張った死体が、リヤカーでよく運ばれてきたという。

 朝、体調が悪くて起きれないでいると、日本人の労務係が来て「仮病を使うな」と桜棒で殴られた。中には病気で仕事に行けない朝鮮人を電柱に縛り、見せしめに殴るなどの凄惨な場面が繰り返されたという。また、坑内の事故も多く、ケガをして運ばれてくる朝鮮人もたびたびだった。

 「足の切断なども多かった。死んだ人も多い。1カ月に朝鮮人は、十数人ほど担ぎ込まれた」(趙観燮)と、朝鮮人は証言している。

 このため逃亡する人が多く、約800人ほどが逃げている。だが、「逃亡して捕まって戻ってきたら、片輪になるか、死ぬかどっちかで、使い物にならない。だから逃亡は死ぬか生きるか、ふたつにひとつの覚悟で逃亡しないとダメです。それで捕まって殴られ、大きな声であれだけやられても、『お前は長生きしろ!』と言うのです」(「遙かなるアリランの故郷よ」)という悲しい叫びも記録されている。

 県朝鮮人強制連行真相調査団の発表では、「足尾町役場に残っていた当時の火葬、埋葬許可書と、同町の寺の過去帳を、町と仏教会の協力で、あらためて調べ直した。その結果、73人の朝鮮人の死亡年月日、死因などが分かった。死因は、肺炎などの病死以外に、頭蓋骨骨折など、事故死と見られるものが目立つ。また、逃亡したすえの凍死もあった」(下野新聞、97年8月6日)という。調査団では、小滝の専念寺説教所跡に、73人の氏名を記した銘板を立てた。その前に立つと、庚申川の流れが聞こえる。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.10.1]