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〈遺骨は叫ぶD〉 秋田・花岡鉱山 生き埋めの朝鮮人救わず見殺し

重労働や虐待に抗議し中国人のいっせい蜂起も

現場近くの寺の境内に移された「七ツ館弔魂碑」

 1944年5月29日の昼近くだった。秋田県北にある花岡鉱山(現在は大館市)の七ツ館坑近くで、突如ドスンという音と同時に、地上が大きく揺れた。七ツ館坑落盤事故が起きたのだった。

 七ツ館坑には、鉱車堅坑だけで、人道堅坑がなかった。坑夫たちは、鉱山に人道堅坑を掘るように要求していたが、無視され、堂屋敷坑と七ツ館坑をつなぐ連絡坑道を使っていた。その連絡坑道の真上を、花岡川が横切って流れていた。花岡川が陥没し、七ツ館坑内の日本人11人と、朝鮮人12人が生き埋めとなった。三昼夜にわたる救出作業で、1人の朝鮮人が助け出された。坑道の奥に続くレールを、タガネかハンマーで叩き、助けを求めているのを知りながら、鉱山では、ほかの坑道と鉱床への被害波及を恐れ、「遺体だけでも掘り出してくれ」と頼む家族や仲間の願いを無視し、夜中にトラックで大量の土砂を運んで埋めた。近くの寺の境内に、鉱山が建てた「七ツ館弔魂碑」があるものの、棄てられた人たちの遺体は、いまも底に埋もれたままだ。

 花岡川は、いくつもの坑道の上を流れており、再び陥落の危険があった。鉱山では、花岡川を迂回させる計画をたて、この工事を鹿島組(現鹿島)花岡出張所が請け負った。鹿島組では986人の中国人強制連行者を、水路変更工事に使役したが、重労働や虐待に抗議し、45年6月30日に、中国人はいっせいに蜂起した。七ツ館坑落盤事故が、「花岡事件」の引き金となった。

花岡鉱山に「七ツ館弔魂碑」が建ったとき、慰霊祭に集まった朝鮮人、日本人関係者

 花岡鉱山は、青森の県境にある中規模の山で、1885年に発見された。1915年に藤田組に経営が移り、翌年から新鉱床がぞくぞくと発見され、大鉱山になった。良質の銅、鉛、亜鉛などを産出するので、日中戦争がはじまると、軍需産業として注目された。太平洋戦争に突入すると、軍需工場に指定され、軍需省から月産を倍近くに義務づけられた。そして、設備の不備や機械の不足などを補うため、多くの労働力を投入した。

 花岡鉱山には、日中戦争が始まった頃から連行された朝鮮人が来ていたが、人数を裏付ける資料はない。ただ、太平洋戦争が始まってから朝鮮人が急増している。強制連行されてきたほかに、日本の金鉱が国策に合わないと閉山になり、そこで働いていた朝鮮人が軍需工場に回されたりした。北海道紋別町の鴻之舞金山からも、数百人単位で来ている。

 花岡鉱山が最大の労働力を擁した44年に、鉱山で作業した「稼働工程表」では、1万3000人のうち、朝鮮人が4500人(延べ)のほか、請負業者人夫が1500人となっているが、このうち800人は朝鮮人だったという。また、日本の旧厚生省が、1946年の調査では、藤田組1、908人、同和鉱業760人、鹿島組121人の、計2859人とある。秋田県内では、もっとも多くの朝鮮人連行者が働かせられた現場だ。

 花岡鉱山に来た順に、第一橘寮、第二橘寮と入った。木造の平屋で、隙間から雨や雪が入ってくるので大変だったという。それでも「最初は、ストーブがあったが、第一寮でボヤがあり、それ以降、全部の寮のストーブを取り去った。冬は、零下10℃以下になるのに、坑内の粘土でよごれた地下タビを乾かすこともできず、朝には凍っていた。それを履くのに苦労した。夜に使った布団はぶら下げると、海草のような中身が下に固まった。布団ではなく、布の袋だった。寒いので抱き合って寝た」(黄彦性)という。

 作業は、2交替制の8時間労働だったが、食糧不足には難儀をした。「皮をむかないジャガイモ、大豆カス、フキを干して切ったものを飯に混ぜていたが、飯粒はいくらも入ってなかった。飯はドンブリに八分目で、これに塩汁だけなのでいつも空腹だった。夜中に起きると、近くの畑に行き、ジャガイモを集めてくると、空き缶に詰めて煮て食べるので、夜空が明るくなった。それでも足りず、フキなどを生で食べたが、空腹のあまり、作業中に倒れる者もいた」(孫基洪)と語っている。

 花岡鉱山は、イモ鉱床といって、鉱脈はイモのように固まっており、それを粘土が包んでいた。乱堀すると落盤するので、よく事故が起きてケガ人や死者が出た。遺骨などは、どうなったのか、朝鮮人は知らなかった。

 「花岡鉱山で不思議だったことは、第二橘寮のことだ」と、いまも元気な李叉鳳は言う。

 花岡町東前田にあった第二橘寮だけは、働ける人ではなく、自分で歩くことができない重病人や、重傷のケガ人を入れて隔離していた。この寮に入る時は、鉱山病院から来た医者が診察し、「この人は、五寮」「これは病院」と分けたというが、治療をしても治らない人だけを入れていた。その寮には近づかせなかったが、一度だけ覗いたことがある。南京袋のような布を着て、70人くらいがほとんど寝ていた。医者も看護婦もおらず、死ぬのを待っている状態に見えた。この人たちが元気になって出たのを見た人がいないし、花岡の寺に遺骨もなければ墓もない。解放した後に行ってみると、寮は、取り壊され、入っている人も消えていた。橘寮の病人たちは、いったいどうなったのだろうか。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.7.9]