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〈遺骨は叫ぶC〉 長崎・端島 海の下の炭鉱、酸欠、落盤、逃亡しても水死

「軍隊なんか問題にならん過酷なリンチ」

人の影もなく不気味に見える端島(軍艦島)

 長崎港の沖合に浮かぶ島々の中でも、端島(長崎市高島町)は、周囲わずか1.2キロメートルと小さい。島全体を高さ10メートルほどのコンクリートの防波堤が囲み、所狭しと高低のビルが林立している。外から見ると、軍艦「土佐」に似ているため「軍艦島」とも呼ばれてきた。

 この端島では、石炭が掘られ、最盛期の1945年には、5300人の人口が居たというが、閉山になってからは、次々と人が去り、いまは無人の島になっている。今年の春、上陸が禁止になっているので、長崎港から端島を一周する船に乗った。廃墟となった建物の中で、朝鮮人や中国人連行者、そして日本人坑夫たちが重労働をさせられ、虐待され、虐殺された人たちの声を聞きたいと思ったが、波頭が高くなって船が揺れ、鋭い風の音が胸に刺さった。

 端島で石炭が見つかったのは、1810年頃に近隣の漁民が発見したと伝わっている。その後、佐賀藩深堀領主鍋島氏が、1883年に採掘を始めたが、この端島を1890年に三菱鉱業が、金10万円で買収した。三菱鉱業は、深層部開発に着手し、当時としては驚異的な深さ、199メートルの堅坑の掘削に成功した。その後も次々と掘り下げ工事が進められたが、「やがて大正、昭和と日本の近代化につれて、増大する石炭需要に応じるため、端島炭坑は、近代的採炭機械を導入して、増産に努めたのである」(「原爆と朝鮮人」)。

閉山して間もない端島(山下直樹さん提供)

 採掘事業の拡大とともに、端島の人口も急速に増加した。明治年間に2800人になり、その後も人口はどんどん増えた。日本人だけでは不足となり、大正時代に端島には朝鮮人が来ているが「1956年の台風災害で会社事務所の一部が流出し、書類は全く残置していない」と、三菱鉱業は述べるだけだ。民間の調査では朝鮮人連行者は、約500人と推定しているが、1939年に朝鮮人強制連行が始まってから多くなっているという。朝鮮人は、日本人坑夫や中国人連行者とは、かなり離れた場所に入れられた。14歳で端島に連行された徐正雨さんの証言では、「私たち朝鮮人は、2階建てと4階建ての建物に入れられた。一人一畳にも充たない狭い部屋に7、8人が一緒」で、「私たちは唐米袋のような服を与えられ、到着の翌日から働かされた」という。端島には、一本の道しかなく、その道の脇に高い防波堤があるものの、「戦時中の炭鉱の厳しさは、軍隊なんか問題にならん。泳いで逃げようとして、溺れ死ぬ人が、年に4、5人はいた。運良く水死を免れても、寮長から半殺しの目にあわされることを覚悟しなければならなかった」というから、生きるも地獄、死ぬも地獄の日々だった。「海の下が炭坑で、エレベーターで立坑を地中深く降り、下は石岩がどんどん運ばれて広いが、掘削場となると、うつ伏せで掘るしかない狭さで、暑くて、苦しくて、疲労のあまり眠くなり、ガスも溜まる。一方では、落盤の危険もあるし、このままでは、とても生きて帰れないと思った」そうだ。

 仕事は、一日2交代の重労働で、いつも労務係の厳しい目が光っていた。食事は、豆カスが80%、玄米20%の飯と、イワシを煮て潰したのがおかずだった。何か祝い事のある日は、自給用の牛やヤギを潰したが、朝鮮人には頭や骨しか回ってこなかった。疲労や下痢で、体が衰弱して仕事を休むと、監督が来て労務事務所に連れて行かれ、リンチを受けた。ムリだとはわかっていても、「はい、働きに出ます」と言うまで殴られた。日本人坑夫の住んでいるところから離れているとはいっても、狭い島のことである。リンチを受けている朝鮮人の叫ぶとも、泣くともつかぬ悲しい声が、いまも耳に残っているという。その日本人は、一度だけ声のする方に行くと、朝鮮人の若い男が手を縛られたまま、労務事務所の前に正座させられ、膝の上に大きな石を乗せたまま、「3人の労務係が交代で軍用の皮バンドで殴っていた。意識を失うと、海水を頭から浴びせて、地下室に押し込め、翌日から働かせたらしい。一日に3人はこうしたリンチを受けていたという。屋外でやったのは、見せしめのつもりだろうが、とても口では話せないひどいリンチだった」と言っている。

 45年8月9日、端島で働かされた人々は、長崎に落とされた原爆の閃光と、キノコ雲を海上の彼方から直視し、8月15日に、日本は敗戦となった。だが、朝鮮人にはもちろんのこと、日本人坑夫にも知らせず、その夜に隣の高島から社船が来ると、朝鮮人と中国人担当の係員を避難させた。そのことから敗戦に気づき、端島の朝鮮人と中国人は大騒ぎになった。

 大正時代からの朝鮮人は、敗戦の時で約500人と推定されているが、死者たちのことはわかっていない。端島の死者は、隣の中の島で火葬し、遺骨は高島に持っていったという。端島には、会社で作った出水福寺という寺があり、1929年から閉山までの45年間も住職をした人は、「朝鮮人のことで覚えていることはありません」と証言している。

 いま、立ち入り禁止の無人になっている端島で、83年間も石炭を掘ったのは、三菱鉱業高島鉱業所端島坑である。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.6.5]