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〈遺骨は叫ぶB〉 三菱美唄鉱業所 ガス爆発、集中豪雨で夥しい犠牲者

三菱美唄鉱業所の立て坑巻き揚げやぐら

 JR函館本線の美唄駅から車で約30分で「炭鉱メモリアル森林公園」(北海道美唄市東美唄町)に着く。1972年に閉山になるまで、ここは三菱美唄鉱業所の心臓部だった。朱色の鮮やかな立て坑巻き揚げ櫓、原炭ポケット、開閉所の主要な3施設が一度に見渡せる。だが、この炭鉱で働いた日本人坑夫をはじめ、強制連行された朝鮮人、中国人たちの足跡はどこにも残っていない。

 美唄の豊富な石炭が世に知られたのは、開拓使の招きで来日した米国人地質学者ライマンを隊長とした資源調査隊が、1874年に出した報告書だった。無尽蔵といわれた美唄の石炭開発に多くの人たちが挑んだ。会社や個人は枚挙にいとまがないが、それぞれ苦難を続けていた。やがて、北海道進出を狙っていた三菱が、1915年に飯田炭鉱や、美唄鉄道などを買収して、北海道の拠点とした。やがて第一次世界大戦の好況に乗って発展した。1919年の年間出炭量は、57万トンを記録し、道内でも屈指の大炭鉱となった。この時代の従業員は、3000人を超えていたというが、そのなかに朝鮮人がいたという。

三菱美唄鉱業所の原炭ポケット

 三菱美唄鉱業所にはじめて朝鮮人が入ったのは、1917年に124人という資料が残っている。美唄のほかの炭鉱には、一人も来ていない。これが1928年には603人に増加している。この人たちがどのようなルートで三菱美唄鉱業所に来たのかはわかっていない。ただ、この時に働いた朝鮮人たちの多くは、昭和恐慌下でいちばん先に首切りの対象となった。不況の冷たい風が吹く異国で、どのように生き抜いたことだろうか。

 しかし、日中戦争がはじまると、石炭の増産が活発になり、炭鉱での労働力が不足した。必要な労働者を確保するため、日本政府の「半島人労務者活用に関する方策」に基づき、朝鮮総督府は組織的で強制的な「官斡旋」という連行政策をはじめた。三菱美唄鉱業所では、1939年から3年間に2000人の募集割当を受けたが、慶尚北道や南道に、5、6人ずつを派遣して人集めをさせた。その第一陣318人は、1939年10月20日に美唄に着き、一心寮に収容された。12月にも約300人の朝鮮人連行者が入山したが、三菱美唄鉱業所の「朝鮮人連行者の推移」(最初の3年間は、12月末。その後は6月末)は次の通り。

 1939年 699人
 1940年 1182人
 1941年 947人
 1942年 1366人 
 1943年 1552人
 1944年 2309人
 1945年 2817人

 三菱美唄鉱業所には、これほど多くの朝鮮人が連行されてきたが、その待遇は悪く、1941年に入山した丁在元は「事務所の壁には、いつもムチ、竹刀、樫の棒など、リンチ道具がいっぱい掛けてあって、それでぶん殴るんですよ。私も飯の大豆粕が腐っていたもんだから文句を言ったら引っ張っていかれて、代わる代わる4時間も殴られた」(「朝鮮人強制連行強制労働の記録」)と証言している。

 朝鮮人たちの約90%が、地下の深い坑内で働かされた。日本人の先山一人に、朝鮮人の後山2〜3人就くのが普通になっていた。朝は5時前に起きて食事を終わり、6時には坑内で働き、午後6時まで働いた。夜勤の場合は、午後6時から翌朝の午前6時までの12時間労働だった。これほど長時間働かせながら、毎日の食事は大豆と燕麦が多かったので栄養不足となり、皮と骨ばかりに痩せている人が大半だった。仕事も食事もあまりひどいので「ここで死ぬよりは」と、厳しい監視の網の目を潜って逃走する人が出た。しかし、ほとんどが捕まり、ムチや竹刀でメッタ打ちにされた。北海道地方鉱山局に残る資料では、三菱美唄鉱業所から1944年4月から11月までに逃走した朝鮮人は、212人となっている。大変な人数だが、それだけ朝鮮人の置かれていた状況は苦しかったのだろう。

 三菱美唄鉱業所で連行した朝鮮人の数はわかっているが、病気や事故などで死亡した人数はわかっていない。ただ、三菱美唄鉱業所も含めて、1945年6月末で美唄町にあった4鉱山の朝鮮人は、4992人だが、1940年から6年までの死者は、559人が確認されている。ただ、三菱美唄鉱業所では、ガス爆発がよく起きたが、1941年の爆発では53人の遺体が地底に残されたが、そのうち14人が朝鮮人だった。1944年の爆発では109人が命を落とし、70人を超える朝鮮人犠牲者の氏名がわかっている。しかし、大事故の死者はこの中に含まれていないといわれている。このほか、下請をしていた黒田組の朝鮮人飯場の約100人は別枠の人たちで、1943年の集中豪雨の時に、出入口に鍵をかけられたまま、濁流にのまれた話も残っている。

 現在の美唄には、華やかな時代の遺物は残っているものの、朝鮮人連行者の悲劇を伝えるものはない。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2007.4.23]