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〈遺骨は叫ぶ@〉 発盛精錬所 朝鮮人労働者に血の制裁

東海に消えた「アイゴー、アイゴーの声」

発盛鉱山の銀を露天掘りした跡

 「ここにもある。あっ、こっちにもある…」

 十数人の報道関係者が騒ぎ出したのは、2006年12月8日の午後だった。場所は、秋田県山本郡八峰町八森の高台に広がる原野。夏場には一帯を覆いつくしていたイタドリや雑草が枯れていた。日本海から粉雪の強い風が吹きつけてくるなかをかき分けていくと、枯れ草の中に人の頭ほどの石が点々と散らばっている。戦時中、近くの旧発盛精錬所に強制連行されて働いた朝鮮人の墓だ。報道関係者がカメラのシャッターを切る音が続いた。

 日本海から海抜20〜80メートルの海岸段丘に発盛鉱山が見つかったのは、1888年のことだ。はじめから銀の産出が多く、のちに大規模な露天掘りをして飛躍的に生産が伸びた。1908年には、「坑夫一三六五人に及び、産銀一ヵ月最大五万トンに達し、単一鉱山として銀の産額は、日本に冠絶した」(「秋田県鉱山誌」)という。だが、富鉱部を掘り尽くしたあとは、たびたび休山を繰り返したが、五能線が開通してから鉱石の運搬が便利になり、住友合資の協力を得て、精錬設備を充実させ、他鉱山の鉱石を買収して精錬する発盛精錬所として再出発した。当時、鉱山が吐き出す煙害が各地で深刻な問題になっていたが、半分が海に面している発盛精錬所は被害が半減した。太平洋戦争中は、精錬所として経営が続けられた。

松の木の下一帯に、埋葬した場所を示す石が点在している

 この発盛精錬所へ、太平洋戦争中に朝鮮人が強制連行されて働いたことは早くから知られていた。しかし、何人が連行され、どんな作業をしていたのか、食生活はどうだったか−などはまったくわからなかった。地元の人が書いた郷土史も、発盛鉱山(精錬所)は書いているが、朝鮮人強制連行の事にはまったく触れていない。

 1996年に秋田県朝鮮人強制連行調査団が発足して、県内に連行された朝鮮人を本格的に調べるようになり、発盛精錬所跡にも、何度か調査に行った。元役場職員は「敗戦後に公文書を焼くようにと指令が来たので、とくに鉱山関係は、念入りに焼いた」という。また、朝鮮人と言うだけで口を閉ざす町民が多い中で、「独身もおれば、夫婦者もいた。朝鮮長屋と呼ばれる、粗末な飯場に住んでいた。休みの日も仕事に狩り出され、疲れて休んでいると、監督に棒で、ばーん、ばーんと叩かれていた。食事も満足ではなかったようで、草を食べながら歩いていた」と言って、飯場の跡に案内してくれる人もいた。

 飯場は、海岸沿いの高台に建っていたという。海風がまともに吹き付けるところで、町では住宅地に造成したが、住む人がなく、一面にススキが生えていた。夏でも強風の時は塩水が吹くが、冬は頬がヒリヒリ痛むほど寒い風が吹く中で、朝鮮人たちは生活したのだろう。晴れた日には、西南に男鹿半島が見えるが、「朝鮮人は男鹿の方に向かって『アリラン』を歌い、『アイゴー、アイゴー』と涙を流して叫んでいたのが忘れられない」と言う。

 調査団が、何度も発盛精錬所跡へ行くうちに、朝鮮人と一緒に働いた人も証言してくれるようになった。「鉄道の貨車に積んできた鉱石を下ろしたり、運んだりするのが主な仕事で、結構重労働でした。監督は、何か気にくわないことを朝鮮人がすると、『制裁を加える』と叫んで、手に持った棍棒で殴っていた。怪我する人もいた。叩かなくてもいいと思ったが、言うとこっちが殴られるので黙っていた。この監督たちが敗戦後、仕返しを恐れて身を隠したが、どこに行ったのか半年くらいも姿を消していた」と言う。もう一人は、上司だった人で、「私が使ったのは14〜15人だが、体の小さい人は、精錬に運ばれてきた大きい鉱石を、小さいハンマーでコツコツと細かく割っていた。この中から3人が逃走したが、次の日に見つかってうんと殴られて半殺しの目に遭っていた。別の組で2人が死んだが、遺骨がどうなったかは知らない」と言っていた。近くの共同墓地を探したが、朝鮮人らしい墓は見つからなかった。

 こうした調査を細々とやっている時に、厚生省が1946年に作成した「朝鮮人労働者に関する調査」の秋田県分を入手した。それによると、1942年から45年までに201人が連行されて来たが、全員が官斡旋と徴用で、所轄は軍需省だった。出身地や生年月日を記入した名簿も付いていた。ただ、地元では夫婦者もいたと言っているので、201人が正しい数字なのかはわからない。また、死者はいないが、逃走が41人と多く、敗戦後に鉱山から離れたのは119人と、人数が合わない。

 数年前に「朝鮮人の墓がある」と、地元の人がこっそり知らせてくれた。秘密裏に調べているうちに、間違いないことがわかり、日本が太平洋戦争を開戦した日に報道関係に公表した。61年目にしてようやく明らかになったが、枯れ草の中に20数人分の墓石が判明しただけで、いまは雪に埋もれている。来春に枯れ草などを取り除き、数もはっきりさせ、とりあえず墓地らしくしようと地元の人たちと話し合っている。(作家、野添憲治)

※のぞえ・けんじ 1935年、秋田県生まれ。木材業界紙記者、秋田放送ラジオキャスター、秋田経済法科大学講師(非常勤)などを経て著述活動に入る。著書に「花岡事件と中国人」(三一書房)「秋田県における朝鮮人強制連行」(社会評論社)など多数。

[朝鮮新報 2007.2.6]