〈月間平壌レポート〉 全国を襲った記録的豪雨 |
会話かき消す雨と雷 【平壌発=文・姜イルク記者、写真・盧琴順記者】在日同胞が宿泊する平壌ホテルは、10日の夕方から丸一日水道水が使えなかった。国際電話もできなくなった。同日朝からの雷をともなった大雨が原因だった。平壌には今月1日から連日、夕立のような雨が断続的に降り続いた。しかしこれは、全国を襲った記録的豪雨の序章にすぎなかった。今回の大雨によって市内でも「数人の人命被害」(16日発朝鮮中央通信)が確認された。 大同江は氾濫寸前
本格的な大雨が降りはじめたのは11日からだ。 11日未明、雨と雷の轟音で目が覚めた。豪雨は午後2時頃までずっと降り続いた。隣の人との会話もかき消されるくらい、ものすごい音をたててひたすら降り続けた。このような雨は初体験だった。 豪雨の定義は各国で異なるが、朝鮮では3時間の降水量が50ミリ以上の雨を指す。ちなみに日本では1時間に20ミリだ。平壌では同日午前3時から6時まで79ミリ、6時から9時まで54ミリの豪雨が連続して観測された。 とくに7日から14日までの間に降水量が集中した。この8日間で580ミリが観測された。年間降水量のほぼ半分の量にあたる。 11日昼、首都中心部を流れる大同江は、上流地域に連日大雨が降ったこともあって氾濫寸前にまで達した。ほとりの遊歩道は完全に水に浸かり、街路樹と街路灯の上の部分だけが見える状態だった。12日に一時大同江の水位は元に戻ったが、その翌日から15日午前までずっと高い状態が続いた。 大同江の水位が上昇したことによって、通常は川に流れ注ぐべき水が市内に溜まって、平川区域、普通江区域などの一部地域が浸水した。 1870世帯が浸水し、多くの工場および企業所、公共建物にも被害がでた。路面電車の運行も止まった。市農村部での穀物生産も大きな被害を受けた。 1967年以来の記録 国内のテレビ放送は、被害を受けた平壌市内と各地方の悲惨な映像を流しながら、連日のように大雨による被害状況を伝えた。同時に、全国を挙げて水害復旧に立ち上がることを呼びかけた。また、復旧工事を行っている各地の様子が新聞紙上をにぎわせた。 一方で、深刻な被害報道を日本で見聞して訪朝した在日同胞や日本人代表団メンバーらは、平壌に本当に被害があったのかと、一様に拍子抜けしていた。 実際に、アパートなどの建物が倒壊した姿は、市中心部では見られない。確認できる被害の跡といっても、大同江のほとりで樹が倒れかかっていたり、泥とぬかるみが残っている程度だ。平壌での復旧作業は、「清掃」「整備」のレベルといっても過言ではないだろう。 たしかに、今回平壌に降った大雨は、1967年に平壌市全体を襲った洪水の時より52ミリも多くの降水量が観測された。 気象部門の関係者は、当時と今年の降水量を説明しながら、「80年代に建設された西海閘門や大同江の上流に設置された5つの閘門が水の流れを調整し、被害を最小限に食い止めた」「閘門がなかったら、恐ろしいことになっていただろう」と話していた。 「平壌が例外」 内閣に設置された洪水被害対策委員会によると、昨年の被害は平安南道などの一部地域に限られたが、今年の特徴は、全国的に大雨が降ったことだと指摘した。関係者は「大雨の被害を受けなかった地域のほうが少ないのではないか」と説明しながら、「平壌はたしかに40年ぶりの大雨だったが、他地域に比べると、被災地とは言えない」と話していた。 平壌支局スタッフ一行は8月下旬、初めて大雨被害が報道された黄海北道の谷山郡、洪水被害対策委員会が「被害が大きい」と語った伊川郡を訪ねた。 谷山郡への出発直前、洪水被害対策委員会の関係者は、そこへは取材に行くべきではない、と言わんばかりの渋い表情を浮かべていた。全国的に見たら、「谷山郡は何でもない」というのだ。 しかし、いざ現地へ赴くと、目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。大雨は567棟の家を倒壊させ、10人の命を奪っていた。 そして、「江原道で2番目に被害が大きかったと考えられる」(洪水被害対策委員会)伊川郡の被害状況は、完全に想像を絶していた。 [朝鮮新報 2007.8.29] |