〈07´夏 祖国レポート〉 キーワードは「変化」 |
7月初旬、約2週間祖国を訪れた。10年ぶりのことである。行きは中国新外相、帰りは国際原子力機関(IAEA)実務関係者の訪朝に遭遇するなど、6者会談初期行動措置の実行とそれに伴う情勢の進展を肌で実感することになった。一方、成田空港で行きは「渡航制限」の文書を確認するよう求められ、さらには一般の乗客とは別の通路から搭乗口に向かうよう指示され、帰りは一つしかない荷物(トランク)の中身を調べられるなど、不当かつ非人道そのものの日本政府の制裁措置を体験させられた旅だった。 「在日同胞は大丈夫?」−安倍政権への怒り 7月だというのに一日中、太陽が顔をのぞかせることなく、どんよりと曇ったままで生温かく、どこにいっても人と車があふれている北京。その北京を後にして平壌空港に降り立ったとき、正直ほっとした。「北京から平壌に行くと、空気のうまさに加えてのどかな田園風景、そして瑞々しい緑に心が洗われる」という知り合いの日本人記者の言葉通りだった。 平壌空港のある順安から市内まで、かつて、何回も通ったはずの道だったが、見るものすべてが初めてであるかのように珍しく思われた。田園地帯を抜けて車が市内に入り目が慣れてくると、懐かしいさまざまな記憶が甦ってくる。95年に初めて訪れた錦繍山記念宮殿、84年に見学した金日成総合大学、何の行事だったかは忘れたが複数回参加した2.8文化会館、そして凱旋門、千里馬銅像、金日成広場。宿舎はこれまた90年以降、久しぶりの平壌ホテルだった。 ホテルの内部は様変わりしていた。入り口右側に喫茶室兼食堂ができ、左手奥に行くと食堂街、3−5階には軽食を出す喫茶室が生まれていた。「実利の追求」を実感した。 翌日、万寿台の丘にある金日成主席の銅像、万景台を訪れて献花した。万景台も久しぶりである。解説員の50代近い女性が説明を終えるや、これが聞きたかったとばかりに「安倍政権による政治弾圧が酷いと聞いているが在日同胞たちは大丈夫ですか?」と語りかけてきた。この質問はここだけではなかった。ホテルの接待員、取材に出向いた大安親善ガラス工場の支配人、テチョン牧場の技師長と、行く先々で同じような質問を受けることになった。 その極めつけは、東平壌地区の中央労働者会館で緊急に開かれた政治弾圧を糾弾する平壌市群集集会だった。午後4時の開会直前に雨が降り出したが、会場に着くと市内各階層代表らですでに満員だった。 集会の内容は本紙で報道したので省くが、報告、そして討論から感じ取れたのは、激しく安倍政権を非難する言葉が言葉だけの非難に止まらず、侵略の過去を清算せず棚上げにしたまま、その犠牲者と後裔たちである在日同胞、そして総連組織を明白な政治的意図をもって潰そうとする、心底から主権侵害されたことに怒っているという、ほとばしり出る感情だった。そして参加者の一人が語った言葉が耳から離れなかった。 「在日同胞たちに伝えてほしい。理性のカケラも持ち合わせていない人間による為政は長く続かない。だから、あきらめることなく最後の最後まで戦い抜くことが勝利への道であるということを」 ウォーキングと太公望−早朝の大同江畔 祖国訪問に際して決めていたことがある。それは日課としている30分のウォーキングを欠かさないということだった。そのコースとなったのは、平壌ホテルから目と鼻の距離にある大同江畔の遊歩道である。 早朝6時。この頃、梅雨に入ったとはいえ本格シーズンの手前である。気温は20度前後。しかし日中、晴れた日には一気に30度近くまで上がる。直射日光が強いだけに肌が焼けるような感じになる。 ホテル前の駐車場を兼ねた広場と、道路を挟んだ平壌大劇場前の広場では、修学旅行でやってきた朝高生たちがサッカーの練習に余念がない。朝の静けさを破って甲高い声が響く。 彼らを見やりながらホテル前の広場を突っ切って左に折れ、道路の歩道沿いに行くと、もう一本の道路とぶつかる。それを渡ると大同江遊歩道の入り口になる。河畔にはすでに太公望たちの姿が見える。15メートルほどに密集して熱中している。使っている竿はグラスファイバーのリール付である。以前はたしか簡単な竿仕立てだったような記憶がある。 江では漁をする舟が点々と見られる。二人一組の投網漁。漁業組合でもあるのか、舟の種類はみな同じで網を引き上げてはまた投げ込む。かつては見られなかった光景だ。 柳とポプラの並木が続く。それにしてもまだ6時だというのに人の多いことに驚く。ざっと50〜60人が視野に入る。圧倒的に60代の男性が多く、たいていが短パンにシャツ姿だ。ついでお婆さん、友人連れが目に付く。そして体操服姿の若い女性、ペットを連れた男性とお婆さん。若者はほとんどがジョギングをしている。 遊歩道に至る坂道の途中ですれ違った女学生は「ディス イズ ア ペン」と、教科書を手に発音を反復しながら英語の勉強をしていた。 これが夕方になると、一帯のあちこちで朝鮮将棋に興ずる男性たちによって占領されてしまう。手作りの布製の将棋板と、質素かつ素朴だが、しかし勝負は熱がこもりどこも人だかりで一手一手に力が入る。待ちくたびれたのか、「アボジ、帰ろうよ」と服の袖を引く5、6歳の子供。「苦難の行軍」から「強行軍」を経て、強盛大国作りへと至るこの10余年を経て気持ちにゆとりが生まれてきたのではないかと思った。 「10年経てば江山も変化」−先を見すえる市民 平壌−南浦観光道路を走り大安親善ガラス工場に取材に訪れた際、道路の両脇を自転車に乗って走る市民の姿が目に付いた。その列は途切れることがないほどにつながっていた。そういえば、大同江遊歩道に自転車専用の道路が設けられていたことを思い出した。加えて車の多さも目を引く。中国製のトラックが数珠つなぎの場面にも出くわした。自転車に乗るのには免許証が必要だという。また、従来のトロリーバスに加えて路面電車、バスなど市民の足が整備され、近郊にまで伸びていることにも驚いた。 平壌市内からは日本製品がほとんど姿を消していた。ビールはオランダ製のハイネケン、スナック菓子や即席ラーメンは中国製、タバコは東南アジアの国との合弁工場で作られた製品で少し辛口、そしてホテルの軽食喫茶室で出される干し明太、ビーフジャーキーは国産である。 日本製品が姿を消したことについてある接待員は「制裁とやらで日本が貿易をストップさせたのだから、ないのは当然」と、それ以上の意義付与はしなかった。あればあったでよし、なければないで別に困らないと淡々としていた。 わずか2週間ほど、急ぎ足の祖国だったが、「10年経てば江山も変わる」という言葉そのものだった。強盛大国、経済強国作りへとひた走る祖国、そのほんの一端にしか触れていないが、キーワードは「変化」だったように感じた。(彦) [朝鮮新報 2007.8.1] |