〈在日朝鮮学生学術フェスタ 論文賞〉 戦後補償裁判の「限界」と「可能性」 |
「戦後補償」とは、戦争の加害国が被害者個人に対して償うという観点から生まれた言葉であり、そういう意味で、国家間の「賠償」とは異なる。 本論文の課題は、日本の植民地であったアジア各国の民主化にともなって、主に1990年代初頭から次々と出てきたいわゆる「戦後補償裁判」について考察を行い、それを過去や現在の在日朝鮮人社会と関連させることにある。具体的には、日本政府は外国人に対して、なぜ正当な補償を行わないのか、なぜほとんどの訴訟がことごとく敗訴となってしまっているのか、日本の裁判所はどういった理由で原告の請求を退けているのか、そして、それらは自分たち若い世代にどう影響していて、どう関わっていくべきなのか、ということを考察したい。 補償は、一義的に戦争加害国の立法や行政措置によって行われるべき問題であって、司法はその中でも不十分であったり、瑕疵があったりする部分を補う役割であるべきである。にもかかわらず、90年代初めから近年にかけて多くの訴訟が提起されるほど、日本の外国人に対する補償政策は不十分であった。また、裁判の判決や政府の政策も理解しがたい部分が多い。諸外国と比べてもその不十分さは際立っている。その理由を考えるうえで、ポツダム宣言受諾による終戦から、極東軍事裁判、サンフランシスコ講和条約、そして韓日条約にいたるまでの流れが重要になる。その流れの中でも、とくに「東西冷戦」構造と本国の「分断」というものの影響が非常に重要だと考える。 さらに、必ず抜け落としてはならないことは、「植民地支配責任」「反植民地主義」の視点である。戦後の講和条約においても、また日本国内においても、植民地主義責任が問われることはなかった。そういった点から、日本政府の、在日朝鮮人を中心とする旧植民地出身者に対する態度、政策の責任を追及するだけでなく、米国を中心とした連合国の身勝手な態度、政策の責任というものも考えなければならない。 そういったことが補償裁判や在日朝鮮人社会にどのような影響を与えていて、それらがどうリンクしているのかを考え、今後の展望、可能性を探っていきたい。展望、可能性として具体的には、ラッセル法廷に端を発した民衆法廷の可能性、朝・日、朝米、北南朝鮮間の協議をあげる。以上のようなことから、戦争をまったく経験していない世代が戦争責任、戦後責任、補償などの問題をどのように考え、どのように関わって、行動していけばよいのかをできるかぎり明確に結論づけたい。 「補償」というものを考える場合、何よりも被害者の意思を尊重するものでなければならない。できるかぎり原状回復に努め、またはそれに相当する具体的な金銭的補償がなされなければならないはずである。日本の植民地支配や戦争によって直接被害を受けた人たちに対してはもちろんのこと、戦後本国に帰れずに異国日本で暮らすことを余儀なくされた人たちに対しても教育や権利など生活の面で「補償」があってしかるべきである。 在日朝鮮人が権利を少しずつ獲得してきたのも、日本当局に与えられたのではなく、自分たちの力、運動と一部の日本人の協力によるものである。 そういった意味でも、実際に提起された「戦後補償裁判」に関する問題だけが「補償」の対象ではなく、それ以外の広い意味での「補償」というものをもっと考えなければならない。 最後に朝・日、朝米、北南関係を考えるうえで、北南朝鮮の間だけでなく、海外同胞も含めた「統一コリア民衆法廷」というものを提唱したい。民衆法廷を考えるうえで、アジアを範囲とするものや、西欧諸国や日本の旧植民地であった国々によるものなど、広く国際的に運動ができるようなものも確かに重要であり必要であるが、ここでは朝鮮人による法廷というものの可能性を考えたい。 朝鮮人が北南・海外関係なく一つの法廷に集まり、日本や米国の今まで不問にされてきた責任を裁く。それを朝鮮半島だけでなく、日、米、中など、海外においても開廷し、広い範囲の数多くの朝鮮人が関わっていけるようにできれば、朝・日、朝米、北南関係の進展を考えるうえでも、日本の植民地支配や米国の占領統治などの責任や補償を考えるうえでも、民衆がリアリティを持って加わっていけるのではないか。そして、「戦後補償」を無視した日本の立法・行政・司法にも切り込んでいけるのではないか。 そして、そのことが戦後補償の問題だけでなく、自分たちの世代や、その次の世代に対する「補償」にもつながることを忘れてはならない。(大阪大学法学部3年 黄貴勲) [朝鮮新報 2007.12.12] |