top_rogo.gif (16396 bytes)

「私たちの東京第3初級物語」証言編 児童、教職員、学父母が見た朝鮮学校

8.15解放、朝鮮戦争、帰国運動 1945〜67年の歩み

 1945年12月8日。解放直後の混乱期、在日同胞の夢と希望とともに、(現)東京都板橋区の東京朝鮮第3初級学校が「板橋初等学院」として産声を上げた。

 本書は、1945年の創立から50年代、60年代中盤までの「チェーサム(第3)」の歴史を、当時の児童、教職員、学父母53人の証言を元にまとめたものだ。

 編者は同校15期卒業生の金日宇さん。創立60周年を迎えた2005年の夏に、創設期の母校の姿を記録に残そうと、学校の卒業生名簿を頼りに聞き取りをはじめた。この2年間に出会った卒業生と教職員、学父母たちの数は80人を超える。

 さまざまな体験談と思い出を聞き、取材を通して、開校当時の成績表や「都立時代」の卒業証書、作文集、写真など、貴重な資料が掘り起こされた。

2005年12月4日に行われた創立60周年記念公演の一場面

 開校当時の同校は、個人宅に開設され教員2人、児童25人の教科書もない寺小屋のようなものだった。東京第3の創立は、東京はもとより全国的にも比較的早い時期だったという。47年に豊島初等学院と統合し、同年東京第3朝聯初等学校としてスタート。48年3月には、木造2階建ての校舎に移る。運動場は現在校舎が立っている場所で、元は麦畑だった。

 本書に収録されている証言のうちいくつかを紹介する。

 鄭香女さん(1.2期)の一番の思い出は、卒業制作で朝鮮地図を作ったことだ。新聞紙をちぎって、水の入ったバケツに入れて、そこに糊を加え、形を作って板に貼りつけ、ウリナラ(朝鮮)の道の数だけ花を作った。運動場に運び出し、校舎を背景に、卒業生みなで人の背丈ほどの大きさの朝鮮地図を囲んで記念写真を撮った。

モヤシ工場の倉庫を借りて授業が行われていた豊島初等学院の前で撮った児童の集合写真(47年12月に板橋初等学院と統合した)

 金龍煥さん(4期)は、戦時中は池袋駅の線路際に住んでいたが、空襲で焼け出され、板橋区南町の親せきの家に身を寄せた。3年生の暮れに板橋の朝鮮学校に通うようになった。クラスは1.2年と3.4年、5.6年の3つで、35〜36人のトンム(友だち)がいた。昼食の時間になると、弁当を持ってこれなかった金さんに、校長先生がコッペパンを半分分けてくれた。ジャムやバター、ピーナッツをつけるトンムもいたが、先生は何かをつけるとパンを1つしか買えないので、何もつけないコッペパンを2つ買い、その1つを生徒に分けてくれていた。

 金炯斤さん(5期)が3年生になった時、アパートを改修した新校舎に移転。その喜びもつかの間、翌年「都立」に移管された。通学路で、朝鮮人だということで日本人に殴られていたこともあり、志賀という女教師に対し、「なぜ、ウリハッキョ(私たちの学校)に日本人の教師がいるのか」などと反発もした。「都立」に移管した後は、意地になったように「国語(朝鮮語)常用運動」を学校や家で行った。5年生になった年に朝鮮戦争が勃発。大きな朝鮮地図に朝鮮人民軍の進軍路を書き込みながら、金日成将軍の話に夢中になった。

個人宅を建て増しした板橋初等学院の前で撮った集合写真

 また本書には、朝鮮に帰国した卒業生たちの証言も記されている。

 「卒業して40年、朝・日関係が一日も早く改善し、交流がもっとスムーズになり、いつか平壌で孫などの手を引きながら同窓会に集う、そんな日が訪れることを願っています。チェーサムを大切にしてください。最後まで守ってください」(金圭蘭さん、18期、平壌在住)

 収録されている創立〜20期の卒業生たちの大半は日本生まれの在日2世たちである。8.15解放、朝鮮戦争、帰国運動という激動の時代を生きた彼らの幼少期の思い出や体験談からは、当時の同胞たちの生活が生々しく伝わってくる。(編著 金日宇、発行 草創期の東京チェーサムを記録する会、2860円(送料込)、TEL 03・6279・3360)(潤)

[朝鮮新報 2007.6.1]