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責任は日本政府に 玄順任原告団長の意見陳述

 裁判長、私は大阪の裁判長を信じています。みんな聞いて信じてもらえると思っているから、訴えたい。私たちがやられてきたこと何もかもを教えてください。

 朝鮮人が何を悪いことしたのか、何を悪いことして「朝鮮悪い」ってレッテル貼ったのか、私は無学やからわかりませんので、最高学府でお学びになられた裁判官ならわかるはずだから、「悪い」原因を教えてください。

 京都の裁判長にも同じことをお願いしましたが、まだ教えてもろてません。何を聞いてたのか、私が聞いたことは、一つも教えてもらえませんでした。裁判官のお答えは、無学の私に恥じないよう、裁判官ご自身の名誉を傷つけないよう、お答えくださいとお願いしました。

 京都地裁の判決は、本当に残念です。

 私たちは日本で真面目に働き、税金を納め、生きてきました。それなのに、いまだに日本人と平等でない、当たり前の年金すら保障されずにいます。在日韓国、朝鮮人は日本の厳しい差別の中、まともな就職はできず、その日暮らしで何とか食いつないできたものが大半を占めています。歳をとってなお、働かなければ食べていけない苦しい生活を強いられている私たちの訴えに、京都地裁は耳を貸さず、歴史的経緯をすべて無視して、不平等を「正しい」と判断したのです。

 私たちをどこまで苦しめたらええのか、日本政府はあまりにも勝手すぎます。戦前戦中は朝鮮人を日本人として使いました。戦争が終わったとたんに国が違う、あまりにも虫がよすぎるのとちがいますか。私たちは本当に腹の底から許せないと思います。

 私たちは日本人と同じように働いて同じようにしてきたのに、掛けたくても掛けられなかった年金を、もらえないような状態にしてしまったのは日本政府です。私たちは何にもしてないんです。こういうことを許しておけるはずがありません。

 だから、大阪の裁判長に同じことを言いたいのです。

 朝鮮が何を悪いことしたんですか、朝鮮悪いということは、私が子どもの時から、「チョーセン、ナップン、チーナップン(悪い奴)」といじめられ聞かされてきました。戦争が終わって62年、戦前からだと100年は越えていますが、まだ悪いという印象を抜いていません。せやから、悪いレッテルをはよ(早く)はがしてほしい。これ、私らの孫、後々の世代にもみんな引きずるわけです。

 私も子どもも孫もみんな、税金払っていながら、なぜ年金もらえへんのや、在日が年金もらえないのは、不公平や、卑怯やと思っています。植民地時代、戦争中は、私ら「われら皇国臣民なり」と日本人扱いされて、日本人として重労働、低賃金で使いたおしてあげくのはてに、戦争が終わったら国が違うって利になることはみなカットされて、いまだに年金ももらえずに苦しんでいます。そんな卑怯なことってあらへん、戦争中同じように使うたら、戦後も同じようにせえっちゅうことです。朝鮮人から税金取ってるかぎりは、私らにも年金出して当たり前や、税金は取るは、人並みのことはせえへんで、道理がはずれてるのとちがいますか。

 私らは、日本に来たくて来たんと違います。

 私は1歳のときに、アボジを追って日本へ来ました。朝鮮で日本の植民地により土地財産を没収され、さらに税金まで払うように迫られ、税金を払えず拷問を受けたアボジに、日本でいい金儲けがあるから日本で働いて払えと言われて日本へ来たんです。

 私の夫は強制連行で日本へ来ました。徴用の通知がきて、数人が夫を捕まえ連れて行こうとするので、夫の父が「一家の働き手だから堪忍してくれ」と言うと、「この非国民め」と言って蹴り飛ばされ、連れてこられたそうです。枚方の火薬工場で、いつも空腹で、無休無月給で働かされたとよく話をしていました。よほど辛かったんでしょうね。解放されて舞鶴から船に乗る直前で、長男の自分が着の身着のままの姿では帰れないと思いとどまり、日本に残ったそうです。

 みんな来たくて来たんと違います。それをわかってほしい。

 京都の裁判長は、知ろうとするどころか、何も聞きませんでした。

 私は80歳になりましたが、今も西陣で帯を織る仕事をしています。もう70年になります。家に機械を2台置いて、一日6時間、注文があれば土日もやっています。織屋に入り、セイケイ、たてつぎ、あぜひらいなど、すべて習いました。今、最初の工程からすべてできる人は京都でも少ないと言われています。「この年までがんばって仕事してる」とほめられるけど、仕事は苦労があります。こんなんで一生終わらなあかんのかと思うこともありますが、家族を養ってきた自分の仕事には誇りを感じています。

 戦中は軍服を織らされました。技術職といえども差別はありました。「良い人が来てくれた。チョーセンが来たらどうしようと夜も寝られなかった」と面と向かって言われたこともありましたが、家族を養うため、朝も晩も帯を織ってきました。何の保障もない私たちには、仕事をきっちりすることだけが、生活の保証でした。

 年金制度ができたとき、近所の人に誘われて区役所へ行きましたが、「国が違うからあかん」と言われました。いつも、区役所ではそう言うだけでていねいに説明してくれません。その時は、あかんと言われたら、昔からそういうことされてるから、あかんもんは言うてもあかん、しゃーないと思い、何も言わずに引き下がったけど、やっぱり悔しかったです。入れるんだったら入ってました。

 1986年、年金がかけられるようになったことは、全然知りませんでした。その当時、夫が病気で入退院を繰り返していました。間もなく夫が亡くなり、入院費とその後のお金がいろいろかかって大変でしたから、そのとき、加入できることを知っていたとしても、60歳の自分が払えるお金はありませんでした。今でもそのときにした借金を返しています。でも、掛けても、もらえる年金が1万円ぐらいだという話を聞いたら、自治体の、無年金者に対する給付金よりも低く、何の足しにもなりません。

 今さら、国が違うといって不平等に扱うことが正しいのかどうか。私らかって、自分の国で住むのがいいと思います。でも、今さら帰れません。そんなふうにしてきたのは日本政府です。せやから、責任ないとは言わされへん、責任ないとは言われへんのです。

 私たち旧植民地出身の被害者が、日本で死ぬまで「悪い」レッテルを貼られることなく、人間として当たり前の権利を保障されますようお願いします。

 そして、これからの世代には、もっともっと自分の国を大事にしてほしい、もっと知ろうとしてほしい。わからなければ、自分の国を大事にできません。

 裁判長、真剣になって、私たちのおかれている事実と思いをしっかり聞いてください。そして、教えてくださいということにきっちり応えてほしい。責任もってください。よろしゅうお願いします。

[朝鮮新報 2007.8.6]