〈解放5年、同胞美術事情−下〉 揺籃期−美術家たちの活動 |
同胞の怒り、闘い描写 「在日朝鮮文化年鑑49年版」は、「わが朝鮮画家たちはなにをやってきたかというとやったことが何もないというほか答えられない状態」と当時の美術家たちの活動を「酷評」している。 解放5年の美術活動は、「在日朝鮮美術家画集」で指摘しているように、せっかく作った美術協会も解放直後でもあり、相互親ぼく団体の枠を超えることができず目に付くような成果を上げることはできなかったようだ。ただ解放10年のスパンで見ると解放5年は、1953年10月の在日朝鮮美術会を結成して「日本における朝鮮美術家たちの組織的活動が始まる」準備期間でもあったと捉えることができる。 4.24教育闘争記録
すべての同胞美術家がそうであったと言えないが、志のある人たちは朝聯のもとでの祖国の統一と同胞運動に寄与する美術活動を展開しようと努力している。その一例が「阪神教育事件記録画集」の出版であったといえよう。作者は許景福であった。 文連は美術部特派員として許景福を兵庫の現場に派遣した。彼は、現地から帰り、兵庫県本部事務所が徹底的に、完全に破壊されているのを見たとき全く憤激に堪えず血潮が煮えくり返るようだった、一日もはやく画劇なり、画集を作って生々しい記録を残して、真相を同胞に訴えるべく着々準備を進めたいと語る。文連は逮捕者の釈放運動を展開する一方神戸、大阪学校事件記録画制作を行い「阪神教育事件記録画集」として出版することにした。画集には「事件の発端から軍事裁判、同胞の決意まで29編のなかにあますことなく描破」しようとした(文連時報48年8月5日付)。 そしてついに「阪神教育闘争記録画報」として9月に発行された。表紙はカラー刷りである。画報は「序にかえて」(朴元俊)と、28枚の記録画そして教育闘争日誌で構成されている。 解放新聞(48年10月24日付)は、書評で「民族教育を守る同胞たちのたたかいがいかに勇敢であり、当局の弾圧がまた以下に悪辣であったか、この画報を横において当時を回顧し闘志を燃やすことであろう」とその発行の意義をたたえ、この売上金を解放救援会で救援基金として活用していくとその普及を促した。 当時蔡峻も日本における唯一の朝鮮人政治漫画家(「蔡峻政治漫画集」出版=59年4月=に際した朝鮮民報社編集局長の祝辞)として朝聯中央時報、解放新聞などに執筆した。作者の本名はわからないが、朝聯中央時報には「レンサイマンガ楽シヤ人生」白頭山画などもでている。 また、同胞の間で美術工芸品などを朝聯中央に寄贈する動きもあった。京都に在住する鄭博文は敗戦前、帝展に数回入選した画家で出品作はみな朝鮮画であったという。彼は絵画に精進するかたわら朝聯のために活躍しつつ、作品を中総に寄贈(48年2月16日付)している。金正壽は中総宣伝部を訪れ、金正壽(紅園)著、李仁洙画、全26葉からなる紙芝居「朝鮮人狩り」一式を寄贈(2月25日)した(朝聯中央時報3月5日付)。小説「朝鮮人狩り」は、関東大震災と万歳事件の二つの事件を題材に愛国者たちを描いた長編小説という。 学校教育に力注ぐ 美術教育にも力を入れている。東京朝鮮中学校の美術部は20人の部員を擁し、朴周烈は将来を期待して指導したという。 平壌で幼少時代を過ごし、42年に東京美術学校に入りながら48年に中退した呉炳学は、絵画の制作に励むとともに学生の指導に関心を寄せた。許南麒は、第1回児童文化賞(朝聯第15回中央委員会で設定、小・中学生を対象にした年1回の全国的規模の賞。図画部門では入席5人、佳作11人)の授与を評して、東京第8朝聯小学校呉炳学など3人の名を上げて「最も図画をよく理解しよき指導された教師として表彰されてよいと思う」と感想を残している(朝聯中央時報1月21日付)。ちなみに呉炳学は現役として活躍中である。 画家の個人的活動では、行動美術展で全和鳳、金昌徳、47年春の第1美術協会展で入選した金昌億、朔日会の有力な同人として毎回出品したと記録されている朴周烈などが活躍した。また、同胞美術家のなかには47年3月に発足した職場美術協議会に参加して47年6月の都美術館で第1回展、48年5月の第2回展にも出品した人もいる。 このような解放直後の活動と同胞団体の運動に沿った活動が53年の在日朝鮮美術会の結成につながっていったといえよう。 画家の活動と異なるが、京都西陣天鵝絨協会主催の美術織物展覧会(48年5月9日開催)で朝鮮人織物組合員の作品10点が入賞している(解放新聞48年6月1日)。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2007.11.2] |