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難病に打ち勝った玄泰成さん 支援募金 民間団体に寄付

「今の自分、みんなのおかげ」

 難病の急性白血病を克服した玄泰成さん(27、大阪市在住)。家族や友人らに支えられ持ち前の根性で苛酷な闘病生活を乗り越えた。その後、闘病期間に同級生や同胞、日本人らの支援で集まった募金を、京阪さい帯血バンクと在日同胞福祉連絡会に寄付した。「今の自分がいるのは、家族や友人、先輩や後輩、多くの同胞と総連組織があったから。少しでも苦しんでいる人の役に立てれば」と元気に語る。

同級生や組織が支援

元気になった玄泰成さん

 玄泰成さんが急性白血病の宣告を受けたのは2003年8月。朝鮮大学校を卒業後、ラグビー部の後輩の指導に熱心にあたっていたときだった。病院嫌いの玄さん、医師に「あと数日遅ければ手遅れだった」と言われた。本人はもちろん家族は絶望し「最悪の事態」まで覚悟した。

 そんな玄さんの状況を聞いた同級生らは、支援する会を発足し、白血病の友好な治療法である骨髄移植のため、骨髄バンクの開設と登録の呼びかけ、募金運動を展開。これに多くの同胞や日本人が応じた。地元の大阪では、総連大阪、朝高、朝・日のラグビー関係者らが募金や治療のための情報収集などを行った。支援の輪は瞬く間に全国に広がった。

 玄さんに適合するドナーは探せなかったが、さい帯血移植という新しい可能性を見出した。家族や友人、同胞らの支援を受け、泰成さんはまだ研究途上であるこの治療法に挑戦する決心を固めた。

 「死にたい」と思ったこともあるという無菌室での苦しい闘病生活が続いた。体内の血を一滴残らず交換しなければならず、移植したさい帯血が生着して血液を作り出せれば移植は成功。それを示す数値を家族は祈りながら見続けた。

 そんな時、大阪朝高ラグビー部の後輩たちが全国大会出場を遂げた。玄さんは、千羽鶴を折って応援してくれた後輩のために「花園に行って声援を送りたい」と申し出た。だが、真冬のスタジアムで数時間も観戦することは無謀、医師が許可するはずもなかった。

 玄さんは数値に向かって「上がれ、上がれ」と気合いを込めた。その思いが勝ったのか、試合が近づくにつれて数値はみるみる上昇し医師の許可を「勝ち取った」。「病は気からと言うけど、本当だった」と今では笑顔で振り返る。

「自分の体験役立てば」

 難病を克服した泰成さん、体重は30キロも減り、血液型も変わってしまった。だが、人生も変わった。今は難病に苦しむ人や家族のためにボランティアで講演や相談を行っている。「自分の体験が少しでも役に立って生きる勇気を持ってくれれば」と思いを語る。

 泰成さんは支援のことを退院後に知らされた。支援の輪が全国にまで広がっていたことに驚かされ、感謝の涙でいっぱいだった。とくに同級生の存在が大きかったという。

 「支援の運動の過程で『同級生が苦しんでいるのにほうっておくのか』とケンカまでしてくれた友人もいた。逆の立場だったらできただろうかと思うと胸がつまる。みんなのおかげで今の自分がいる。感謝の言葉しかない」

 今ではすっかり元気になり、病気のことなどまったく感じさせず、仕事とボランティアを両立させている。そんな玄さんは学生時代から交際している女性に一番の感謝をしている。体の異変をいち早く察知し、「強引に」病院に連れて行き、病床ではいつも励まし、「何があっても絶対に別れない」とまで言ってくれたのだという。

 2人は家族や友人らの祝福の中、11月に結婚することが決まった。(鎬)

[朝鮮新報 2007.10.22]