〈手記〉 「本名宣言から10年、翠(すい)をウリハッキョへ」 |
私はいわゆる日高卒、小学校から高校まで李仁美ではなく、通名で通っていました。そんな私が朝鮮人として生きていこうと決めたのは、高3の時、サマースクールでの朝青のオッパ、オンニたちとの出会い、そして今は亡きハラボジ、ハンメの事を思い、自分のルーツを考えてのことでした。 それから早10年、わが子の将来をどうするかの選択が迫られる時となりました。日本の教育を受けて育った私は、子どもも当然のことながら、近くの公立小学校へ通わせるつもりでいたし、それを当たり前だと思っていました。子どもが生まれた時、親しいオッパたちから「ウリハッキョにいれなきゃな」と言われても「???」「なぜ?」と、それ以上考えませんでした。
ウリハッキョのことを真剣に考えるきっかけになったのは昨年、支部の委員長と朝青のミョンスクトンムにさそわれ、食事をしたときでした。委員長はスイ(長女)の将来には大きく2つの道が考えられる、一つは日本の学校に行かせること、もう一つは、朝鮮の学校に行かせること、どちらを選ぶかはトンムの決断しだい、両方を視野にいれてゆっくり考えてみなさい、とりわけ結論を急ぐでもなくさりげなく言いました。 その日から数週間後、学校創立60周年の行事に誘われ、私は仕事で行かれず、子どもだけを行かせました。帰ってきた子どもたちは、そこでの出来事や、夏の海水浴であったオッパ、オンニたちも「仁美の娘だろ」と遊んでくれたことなどを楽しそうに話してくれました。 私にはそれがとてもうれしく、私がいないところでも子どもたちを見守ってくれるんだと、感激しました。 その後、私の心はウリハッキョに向かい、一度学校を見てみたいと、11月の授業参観の際、初めて立川の学校に行きました。まず見たのは1年生のクラス。朝鮮語での授業、教室の後ろに張り出されているものも朝鮮語で書かれてありました。幼い子どもたちが、朝鮮語の授業を理解している姿は、「すごいなあ、ペラペラでいいなあ」と、ただただ驚き、感心の一言でした。 参観のあと、先生方に学校の実情を説明していただきました。私が一番心配したのは、偏った思想教育はないのか、ということでしたがそれは私の思い過ごし。何よりも校長先生の考え方には胸打つものがありました。 この先生方なら安心して子どもを預けられる、そう考えました。 それからは、私なりに情報収集をしました。まずはウリハッキョを出てどうだったかを知りたくて、同じ支部のクンミオンニに聞いたり、ミョンスクトンムにも聞きました。お金はいくらかかるのか、電車通学は大変だった? 弁当のおかずはやっぱりから揚げ、卵焼き? など、いろいろ聞きましたね。 それとは別にこの問題は、私の生き方にも大きな意味合いを持っていました。社会に出てからの10年の間、李仁美として生きながらも、自分の国の言葉を話せない私を、周りは「ジャー、李ちゃん日本人だね」とニセ者扱いで、悔しい思いをしました。 確かに「(スマップの)草g剛ってやるな」、と思ったりもしました。だから私には朝鮮語をマスターすることはすごいことなので、娘には日本語も必要だが、ぜひ朝鮮語を覚えさせたい、私みたいな悔しい思いはさせたくない、「それならウリハッキョへ」こんな風に発展していったのでした。 この決断を人に話すと賛否両論、両親でさえ、日本学校に行かせろと言い(今は賛成)、逆に立派な朝鮮人に育てなさいと、応援してくれる人もいました。 たしかに近くの日本学校にはない悩み(毎日のお弁当の献立とか)はあるけれど、私のルーツである祖国のことを子どもを通してともに学び、成長していけたらと思っています。 この決断が良いか、悪いかは将来娘自身が考え、また次に進んでいけばと思っています。まずは子の未来を誰よりも案ずる親として、今の考えに「これが正しい」と胸をはって言える私がここにいます。 最後にきっかけを作ってくれた支部の委員長、ミョンスクトンム、支部のオッパ、オンニたちへ感謝をこめてコマッスムニダ。(李仁美、東京都福生市在住) [朝鮮新報 2007.3.24] |