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〈解放5年、同胞通信事情−上〉 通信社の草創期−ガリ版刷り、漢字とハングル併用−

 解放後、在日朝鮮人の通信事業活動もさまざまに展開された。3回にわたってその概要をみる。

朝鮮情報社

 解放直後いち早く通信事業を行ったのは、朝鮮情報社であった(在日朝鮮文化年鑑1949年版)。「朝鮮情報」(日刊KIP)を発行。発行所は東京都杉並区高円寺4−536、編集兼発行人は金允中であった。購読料は1カ月30円。漢字とハングル文字併用記事である。「昭和21年6月1日第3種郵便物認可」を得ているのをみると、朝鮮情報はその前から発行されたとも思える。会社の創立日は1946年1月1日となっている。金允中は、朝鮮貿易通信社も設立し、週刊「朝鮮貿易通信」を発行していた。

解放通信社

「朝聯手帳1948」には当時の言論機関一覧が載っている(東京在住の白大龍氏寄贈=在日朝鮮人歴史研究所所蔵)

 大阪では、解放通信社が「日刊特報解放通信」を発行していた。発行所は大阪市西成区今里町1−524(朝聨手帳1948)、生野区新今里2−21(1948年8月31発行、105号)などとなっており、編集兼発行人は金元均(1949年1月6、7日合併号からは金性洙)である。ガリ版刷りで、1948年10月26日第125号からは活版印刷であった。昭和22年5月1日付で第3種郵便物認可を受けている。日本語版である。

 金元均は、朴元俊らとともに解放直後に大阪で大衆新聞を発行していた本人である。大衆新聞は民衆新聞と合併、大阪では大阪版ウリ新聞も出した。大衆新聞と民衆新聞は合併後、解放新聞(現在の朝鮮新報)と発展した。彼は解放新聞社の関西地区代表を担当しながら通信も発行していたのである。目次構成は北朝鮮情勢、南朝鮮情勢、資料となっている。1948年8月に復刊となっているが、第1号の発行日と何号まで発行されたのかはわからない。

 金元均は4.24教育闘争に関連したということで逮捕され、強制送還された。1948〜9年頃から1952年5月(釈放)まで南朝鮮と日本で刑務所生活が続いたという。そのため本格的な活動はほとんどできず解放通信も発行が困難になったようである。

東亜通信社

大阪で発行された解放通信

 「日刊東亜通信」も出ていた。白武が国際タイムズ社(解放後の在日朝鮮人新聞社のなかでは日米当局寄りの新聞社といわれる)社屋の一部を借りて始めたのが東亜通信社であった。1947年末に印刷されたと思われる「朝聨手帳1948」には社屋の住所が東京都港区芝琴平町1、不二屋ビルとなっている。東亜通信は平壌放送とソウル放送を受信して配信していた。日本語版である。100号の発刊を契機に殷武巌が編集担当になった(朝聨中央時報1949年4月24日)。昭和23年2月10日に第3種郵便物認可を受けている。

 現在、日本国会図書館所蔵のものは292号(1948年7月27日)からあるが、発行号数から逆算すると1947年7月頃の発行ではないかと推測できる。

 第292号からは、標題を「日刊東亜通信」から「日刊新亜通信」と改題した。発行所は東京都中央区月島西仲通12−7で、第315号(1948年8月23日)から東京都中央区槙町1−3である。いずれも朝聨中央総本部が所在した場所と同じである。

 今日、朝鮮の独立統一と在日朝鮮人運動発展に寄与する同胞のための真の通信社として高くその活動が評価されているのは、朝鮮民主主義人民共和国創建後に創立された建設通信社(現在の朝鮮通信社)である。

 そのような視点で見ると朝聨が解散されるまで新亜通信が同居していたのはなぜだろうという素朴な疑問が生まれる。それは、東亜通信の編集発行人が朝聨の役員をやっていたことと、記事が少なくとも反朝鮮、反朝聨ではなかったのと関連するのではないかと思われる。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2007.1.20]