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言葉

 関西に暮らして、もうすぐ4半世紀が過ぎようというのに、いまだに関西言葉は難しくてほとんどしゃべれない。「ほんまにいつまでもなじまへんなあ」と、つっこまれるが、元々が東北の人間でもあり日常ではウリマルも多いので、時々はわれながら本当の心の叫びは何語でしているのだろうと、とまどうことがある。

 18世紀、ドイツからロシアのピョートル3世に嫁いだエカテリーナ2世は、ロシアになじむために、まず、ロシア語を徹底的に覚えたという。積極的なその姿勢は、外国からの妃を迎えることになった国民の心に響いたことと思う。

 「言葉」はその人の暮らし、階級や文化、性格、家庭での育ち方など履歴のすべてを表してしまう。どのようなトーンでどのようなことを話題にしているかで、出自はごまかしようもない。だからこそ、関東大震災時に「普通の日本語」がしゃべれなかった人は、どんなに恐ろしかっただろう、と思う。

 日本側からすれば、在日朝鮮人は日本になじむために早々に母語を捨て、日本語で暮らすのが可愛気のある姿勢ということになるのかもしれない。

 たしかに、すっかり関西の同胞は関西人に、東北の同胞は東北人気質を身につけている。しかし生物というのは記憶以前に、太古の昔から自分に引き継がれている遺伝子から成り立っている。それは安心しようとして絶えず「私は何者であるか」と自分自身に問いかけずにはおかない。「言葉」はルーツへのあくなき希求であり、核なのだと思う。(朴才瑛、女性問題心理カウンセラー)

[朝鮮新報 2006.2.11]