若きアーティストたち(39) |
シンガーソングライター・尹英蘭さん 「私が生まれた時から 祖国は二つでした/悲しい歴史がこの地を引き裂こうとも 互いに求めあった/初めて会えた時どうしよう そんな夢に心躍らせ/どこか懐かしいその笑顔 全てを解き放とう/一緒に歌おう この喜びを誰に伝えよう/この日を待ちわびた 私たちに」(日本語訳詩、原文はウリマル)。題名は「ハナ」。
在日同胞の間で広く歌われるこの歌。朝鮮学校や各地同胞の行事、そして金剛山歌劇団までも日本や南での舞台で歌うほど有名な作品となった。 「まさかこの歌がこんなに一人歩きするなんて思ってもいなかった。素直にうれしい」と作詞、作曲したシンガーソングライターの尹英蘭さん(29)。現在は、ミュージカルの作曲、劇団の音楽担当、演奏会に共演、アーティストへの楽曲提供や歌唱指導など活動の場を広げている。 また、人に依頼されて曲を作る初仕事となった、03年の大阪同胞ミュージカル「ミレ」で全40曲を作曲。「こんなに短期間で曲を作ることはこれからの人生においてないかも」と振りかえる。 尹さんは、代表曲の「ハナ」についての秘めた思いを語り始めた。作品が誕生したのは、2000年夏で、「6.15北南共同宣言」が発表された年の事。「北と南の両首脳が手を取り合ったあの時の映像を見て涙を流す自分がいた。在日同胞たちみんながそんな気持ちだったと思うんです」。 共同宣言が発表される前まで、「あなたは北ですか? 南ですか?」と聞かれた時、はっきりと答えられなかった。 「『在日』の立場ってとても難しい…。でも今は時代が変わった。互いに手を取り合って一つになろうというみんなの思いを、『在日』が作った歌で伝えたかった」 もう一つ、この歌を作る大きなきっかけになったことがある。00年、東京で行われたシンガーソングライター・白井貴子さんのコンサートで、「ハナ」という題名の曲を聞いた。この時、「なんで日本人が歌っているのに自分たちにはそんな歌がないの?」との思いが心に重くのしかかっていた。
「チョソンサラムとして自分が作らなければ」との強い思いから作り上げたのが「ハナ」だった。その間、文芸同大阪に所属しながら00年12月末から15日間、平壌で一流の音楽の先生に作詞、作曲に関する講義、指導も受けた。 「『ハナ』が広まることで『社会派の音楽家、作曲家』と勘違いする人がいるんですけど…」と苦笑い。「自分は政治とか哲学とか、そういうものを深く考える人間じゃない。ただ、在日朝鮮人の歴史を背負う一人として、自分が感じた事を音楽で表現したいと思う」。 小さい頃からピアノ教室に通い、家庭では自然と音楽に触れた。アボジがカーペンターズやビートルズの歌を好んで聴いた。それで自分も好きになった。ハラボジは平壌学生少年芸術団が好きで、その影響から同芸術団の歌をテープが擦り切れるほど聞いた。 北大阪朝鮮初中では音楽の先生だった韓伽倻先生に憧れ、「音楽の楽しさ」を知った。 大阪朝高時代は曲作りもやった。大阪音大短大ピアノ科を卒業後、母校の北大阪初中の音楽講師と大阪音大付属幼稚園助手の2つをかけ持ち、4年間務めた。その後、「もっと作曲について学びたい」と京都教育大学音楽科へ。ここで音楽の奥深さをもっと体感していくことになる。 「人の歌声って話す『言葉』よりも何かを伝えたい時に、その表現を伝えられるすごく単純な手段であるし原点だと思う。自分の表現した曲に共感してくれたり賛同してくれたりしたらやっぱりうれしい」 そして「5、10年後と自分のおかれた境遇はきっと変わっていくはずだけれど、これからもいろんな人に出会ってつねに刺激を受けて曲を作っていきたい。その時に感じたものをしっかり出していける曲を一生作っていければいい」と目を輝かす。5年間で作った曲は約100曲にも上る。「いずれ『尹英蘭ベスト』アルバムを作ってみたい」。(金明c記者) ※1977年生まれ。北大阪初中、大阪朝高、大阪音大短大ピアノ科卒業。同大付属幼稚園助手、北大阪初中音楽講師を経て、作曲を深く学ぶため京都教育大学音楽科へ。卒業後は楽曲提供、歌唱指導などを行う。03年にチョ・ウルリョン監督追悼映画「ハナのために」楽曲提供、大阪同胞ミュージカル「ミレ」作曲、05年にKJミュージカル「宮女長今」作曲、06年長野渡来人祭り「ハナ」共演など幅広く活動。代表曲は「ハナ」「アリラン恋歌」。 [朝鮮新報 2006.7.26] |