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考察−朝鮮戦争と日本〈下〉

対ソ包囲網形成 

 朝鮮戦争の勃発は、冷戦の激化と切り離すことはできない。

 米国は1947年、トルーマン・ドクトリンによってギリシャ、トルコを援助し、欧州復興のマーシャル・プランを実施してヨーロッパにおける対ソ包囲網を形成した。

 朝鮮民主主義人民共和国の樹立と中国革命の勝利に直面した米国は、アジアにおいても反共包囲体制を強化しようとした。

 ロイヤル米陸軍長官は1948年、日本をアジアにおける反共の砦として確保すると声明し、米国のアジア政策展開での日本の位置と役割をあきらかにした。

 さらに50年1月、アチソン国務長官は太平洋地域における米国の「防衛線」は、アリューシャン−日本−沖縄−フイリピンを結ぶ線であるとして再び日本の重要性を強調した。

 朝鮮を「朝鮮戦争の挑発者」だとする主張は、このアチソン演説が米国のいわゆる「防衛線」から朝鮮を除外していることを大きな論拠としている。

 彼らは、これは米国が朝鮮に対する防衛義務を放棄したことにほかならないと宣伝し、これこそが「北朝鮮にすきを与え絶好の機会として南への侵攻を始める原因となった」というのである。

 しかしアチソン演説の原文では、このすぐ後につづく部分で「防衛線」にふくまれてない地域に対しても攻撃があった場合には「文明諸国は介入して戦う」とぬかりなく付け加えている。

 開戦を前に米国は、対韓軍事援助を強化しており、相互軍事援助協定まで締結した。
 アチソン演説は、米国が韓国をけっして放棄していないばかりか日本を一大後方基地にかえ、韓国を前哨基地としてアジアにおける反共包囲、攻撃態勢をつよめていることを示している。

 アチソン演説の前の部分だけとりあげ、都合のわるい後の部分はかくして、なんとしても朝鮮を「戦争挑発者」にしたてようとするこれらの試みは最も恥ずべき方法で歴史の真実をねじ曲げるものである。

朝鮮の諸情勢

 戦争勃発前の朝鮮における諸情勢を分析することは、戦争の真相を明らかにするうえで重要である。

 朝鮮は領土において米国の79分の1、人口は10分の1の小さな国である。

 敗戦当時、日本は重要な工場をことごとく破壊し、保安措置を放置したため炭鉱と鉱山は水びたしになっていた。さらに敗戦のどさくさにまぎれて43億円にのぼる朝鮮銀行券を乱発したために悪性インフレは経済全般を混乱させ人びとの生活を苦しめた。

 日本の植民地支配時代、朝鮮北部にはひとつの大学もなく、建国に必要な人材は養成されなかった。当時、鉄道の機関士は一人もなく機関助手すら20人に満たなかった。

 このような状態で、朝鮮がやっと短期の2カ年人民経済計画に着手するのは戦争の1年前の1949年である。

 当時、友好国のソ連は対独戦争には勝利したものの国力は甚だしく疲弊し、中華人民共和国は成立して8カ月しかたっていなかった。

 マッカーサーが朝鮮人民を侮り「戦争は2週間で終わる」と豪語したのは、朝鮮のこのような実情を知っていたからである。

後方基地の安定化

 後方基地の日本を安定させるため米国は49年9月、在日朝鮮人連盟と民主青年同盟を強制解散させ、戦後に高揚した日本の平和運動、労働運動を弾圧した。下山国鉄総裁の殺害、三鷹事件、松川事件など奇怪な謀略的事件があいついだのもこの時期である。

 南朝鮮では住民の3分の1が虐殺された済州島4.3事件、数万の死傷者、行方不明者をだした10月人民抗争弾圧などが続き、米国の単独政府樹立と民族分裂政策にだんこ反対した勤労人民党首の呂運亨氏、右派の巨頭といわれた金九氏は暗殺された。

 朝鮮戦争は、突然勃発したのではない。それはアジア大陸の入り口にあたる重要な地政学的位置をしめ、自主への道を歩み始めた共和国を早いうちに抹殺するため、日本を基地とする周到な戦争準備と計画のもとに始まったのである。(白宗元、歴史学者)

[朝鮮新報 2006.6.30]