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〈横田、ブッシュ会見を眺めながら −上−〉 拉致問題と「感情の錬金術」

「万景峰92」号入港の阻止を叫ぶ日本の右翼勢力(4月26日)

さる4月28日は、記憶に値する特別な日であったように思う。愛国主義を鼓吹するための「教育基本法改訂案」が国会に上程されたかと思うと、戦前の治安維持法の再来であろうか、「共謀罪」を含む新しい法律(組織犯罪処罰法)が同時に上程された。そればかりではない。この日を期して、「北朝鮮人権法」が議員立法の形で上程されたのである。

 しかもこれと符節をあわせるがごとく、4月18日、東京を出港した海上保安庁の調査船2隻を島根沖の海上に遊弋させ、いつでも紛争の島独島の海域に突入せんばかりの態勢を取らせることにより隣国との緊張がピークに達している最中、日本政府は拉致被害者横田めぐみさんの母親をワシントンに派遣、ブッシュとの会見を実現させるというスタント(離れ業)を演じさせた(日本時間4月29日未明)。以上一連の出来事は、決して偶然の一致ではない。緻密な計画に基づいて巧みに演出された小泉政権の演劇であった。

 これに関連して記憶に甦ってくるのは公職追放令の廃止(1952年)とともにいち早く政界に復帰し、瞬く間に政権の座に就いたかつてのA級戦犯岸信介のことである。そして彼が3期総理を務めている間(57〜60年)、渾身の力を込めて達成しようとした政治目標が、@平和憲法の撤廃A再軍備の達成B治安維持法の復活の3点に要約されるものであったことだ。

 60年安保闘争の混乱の中、涙をのんで岸が政権の座を降りて以来、いずれの内閣においても岸のめざした終生の目標は達成されなかった。岸の志に最も忠実たらんとした政治家はおそらく中曽根だったろうと思うが、豪腕で知られたその中曽根の力をもってしても、それは可能ではなかったのである。

 私の古いノートによると、通産大臣時代の中曽根は1973年4月1日、東京の外国人記者クラブで演説しており、その時2つのことを主張した。その一つは、日本の海上自衛隊の哨戒距離を1000kgに延ばしたいということであり、2つ目はその時点から5年後、つまり1977年には、第9条の撤廃を含めて、現行の平和憲法を改訂するための国民投票を実施したい、ということであった。ちなみに中曽根のこの発言は外人記者クラブで行われたせいか、私が目にした日本の新聞にはどこにも報道されておらず、英字紙ジャパン・タイムズで見つけてノートに書きとめておいたものである。

 このように岸信介が権力の座に就いて以来半世紀にわたり歴代の内閣が注いできた執拗な努力にもかかわらず、岸の悲願であり、同時に日本の保守勢力が目指してきた3つの政治目標は常に高嶺の花のままであった。

 ところが、このような閉塞状態は、いま、劇的に変わったと言ってよい。つまり、岸以来の3つのターゲットは、小泉「劇場」内閣の演出により、少なくとも次の内閣になれば容易に手の届く至近距離にまでたぐり寄せられている。しかも小泉総理が意中の後継者としてあと押ししている人物が安倍晋三であって、その人物が岸信介の孫ときてみれば、これを単なる偶然だと見逃してよいのか、判断に迷わざるをえない。(鄭敬謨、「30の会」東京ニュースより)

[朝鮮新報 2006.6.5]