「壁画古墳の保存、活用」シンポ 東北芸術工科大学で、全浩天氏が「高句麗壁画」で講演 |
2006年2月4日、「壁画古墳の保存、活用」についてのシンポジウムが、山形市に所在する東北芸術工科大学の東アジア・アーカイブ研究センター大会議室において開催された。同大学の文化財保存修復センターの主催である。参加者の多くは壁画や歴史、文化遺産についての研究者や、それらの問題に関心を持っている一般の方々や学生たちであった。
テーマは近年、大いに話題となった日本の国宝・高松塚壁画古墳の壁画の保存をめぐる問題であった。パネル・ディスカッションに先立って講演が行われた。沢田正昭筑波大学院教授(世界遺産学)は、「遺跡の保存と活用―古墳の在り方について」、建石徹氏(文化庁美術学芸課)は、「壁画古墳の保存活用における行政の役割」、張大石東北芸術工科大学研究員は「高松塚壁画古墳をめぐる『2004年問題』とそれ以降」、全浩天・在日本朝鮮歴史考古学協会会長(考古学博士)は、「高句麗壁画古墳とその現状―飛鳥における壁画古墳と関わって」と題して、それぞれ講演を行った。 全氏の講演は、鮮明なスライドを使いながら、世界遺産に登録された高句麗古墳壁画を紹介し、その内容と現状、提起される問題などを具体的に述べた。同氏がとりわけ強調し、注目した壁画古墳と壁画内容は次の通りである。 ▲高句麗壁画古墳は、平壌市とその周辺の黄海南道に73基、中国吉林省集安市に23基が集中している。 ▲4世紀末の黄海南道の安岳第1号墳の高さ3.4メートル、幅約2.5メートルの人物風俗図であるが、被葬者の宮殿、屋敷が描かれている。なぜ、古墳壁画に宮殿や屋敷、邸宅が描かれるのであろうか。高句麗の王侯貴族は霊魂不滅の思想を信じ、死後においても生前と同じような生活を欲し、壁画古墳自体を自身の邸宅、宮殿、家屋、住居として考え、生前の暮らしの数々や、忘れ得ぬ記憶、願望などを描いたのであった。
▲5世紀末の安岳第2号墳の死者が眠る玄室の高さは3.8メートルであった。ここに描かれた美しい飛天は、あたかも壮大な寺院の大伽藍の空中を飛行しているかのようである。その飛天の美しさと麗しさは、高句麗壁画古墳の婦人像の一つの頂点をなしている。 ▲4世紀中葉の安岳3号墳は、最大の壁画古墳であり、「旧唐書」巻19高麗伝が示すように、5色の衣装を着て、白羅冠を被っている高句麗王を描き、玄室を取り巻くように行進している王の大行列図が描かれている墳墓である。被葬者である王と、墳墓入口傍らに描かれている張家督と呼ばれる侍従武官の冬寿の絵と混同してはならない。 ▲安岳3号墳の東側室の入口の壁画に描かれている相撲の図は、相撲の起源として注目される。裸になって髷を結い、褌を締めて、張り手を使っている図と相撲を観覧する王を出迎える斧鉞隊の儀仗兵の図である。 ▲安岳3号墳の中央正面の広間と墓室を整然と区切る石柱と、その頭部に彫られた鬼面、獣面は、邪悪なものの侵入を拒むためである。 ▲5世紀後半の水山里壁画古墳は、4.1メートルの高い天井を持つ壁画古墳であるが、そこに描かれた代表的な壁画は王妃の人物像である。高松塚の壁画に描かれた飛鳥の美人像と対比され、その麗しい形姿の源流であるとされている。 全氏は、以上の高句麗壁画を提示しながら、良く残されている部分と剥落し汚染された部分を比較し、その保存科学上の緊急の対策が必要であることを訴え、行政と考古学者、自然科学者、地域住民の役割、とりわけ国際的支援の緊急性を提起し報告した。 このあと、松田泰典東北芸術工科大学教授の司会の下に、講師からの問題提起を基礎にパネル・ディスカッションが行われた。各講師からの相互討論が進められたが、とくに注目され、議論がわいたのは、04年、高松塚古墳壁画に発生した大量のカビとダニ、05年、6月27日に発表された、高松塚古墳壁画の石室全面解体による保存方針をめぐっての論議であった。 こうした論議を通じて痛感されたのは、高松塚古墳壁画の保存問題は、保存科学の分野に限られる問題ではなく、歴史、考古学、美術などの専門分野と文化行政は無論、市民を含む社会全般にわたる文化の問題であるということだった。それはまた、全氏が強調したように、高松塚壁画古墳やキトラ古墳の壁画に大きな影響を与えた高句麗壁画古墳の恒久的保存のための対策と国際的支援活動と結びつくことが重要であろう。(大西幸次、ジャーナリスト) [朝鮮新報 2006.3.1] |