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生誕100周年 李升基博士を偲んで、05年末北、南、在日でシンポ開く 「現代朝鮮科学の開拓者」

 人間の営みにとって衣食住は、いずれも必須の条件であるが、20世紀になって「衣」の分野では画期的な科学の成果があった。

 朝鮮の誇る科学者、李升基博士によってビナロンが発明され、米国ではデュポン社がナイロンを開発したのである。

李升基博士

 これまで衣料は綿花、麻、繭など、天然の原料に依存してきたが、高分子化学の目覚ましい進歩によって工業的に合成繊維を生産することが可能になった。

 李升基博士が合成繊維ビナロンを発明したのは、日帝時代の1939年である。合成1号の学名をもつビナロンは、石灰石を原料とするが、熱と摩擦に強く衣料として木綿に代わるすぐれた特性がある。ストッキングなどに使われ、絹に似た光沢をもつナイロンも合成繊維であるが、これは原料が石油である。

 綿花の生産が少なく石油資源のない朝鮮で、どこにでもある石灰石を原料とするビナロンで主体的に衣料問題を解決したことは、世界でも初めてのすばらしい業績であった。

 李升基博士は、朝鮮が植民地に転落する1905年に生まれ、朝鮮王朝末期、日帝の統治時代、そして米軍占領下の南朝鮮で、長い苦難の時代を耐えてきた。

 解放前、京都帝国大学(京大)工学部教授として研究生活を続けてきた博士は、戦時下、日帝に協力しなかったために「治安維持法」違反で大阪憲兵隊に検挙され、日本の敗戦でようやく釈放された。

北京で昨年末に開かれた「李升基博士生誕100周年記念シンポ」(写真上)には北、南、在日の科学者らが出席した(写真下)

 解放後、帰国してソウル大学校の工科大学学長になった博士は、植民地教育を強いる米国の「国立大学案」に断固反対し、職を辞した。

 朝鮮戦争で人民軍がソウルを解放した時、金日成主席は、幹部を遣わし、北でビナロン研究を続けてはどうかと博士に勧めた。

 これに応じた博士に対し主席は、自動車では空襲の危険があるからと安全を考慮して、牛車を送った。博士は、この牛車で激しい戦火の中を、山を越え、川を渡って主席のもとへと急いだのである。

 この時、博士の前にはもちろん、選択の道があった。事実、科学者の中には、研究や生活条件のよい国をえらび、祖国を去った人もいた。しかし博士は、北に向かい、さまざまな困難を乗り越え、ついにビナロンの工業化に成功した。

 科学に国境はないが、科学者には祖国があるといわれる。博士の生涯を顧みる時、博士は世界的な卓越した科学者であるばかりでなく、すべての科学的知力を捧げて、祖国と民族に献身した熱烈な愛国者であった。

 民族受難の時代に生きた博士の研究は、日帝時代にも、李承晩政権下でも決して花開くことはなかった。それはただ、金日成主席の深い配慮のもとでのみ民族の誇る科学的成果として光り輝くことができた。

 1996年、博士が亡くなられた時、金正日総書記は葬儀を国葬とし、故人を愛国烈士陵にあつく葬った。

 博士の生誕100周年にあたる昨年末、北と南、在日の科学者は、北京で一堂に会し、北と南の科学交流を促進するためのシンポジウムをもった。

 集まった科学者たちは、こぞって李升基博士を現代朝鮮科学の開拓者として高く評価し、この尊敬する先人につづいて、祖国統一のために、輝かしい科学、文化も担う民族として隆盛発展するために、共に力を合わせ、交流を深めて、りっぱな科学的成果をあげようと心から語り合った。(白宗元、歴史学博士)

[朝鮮新報 2006.2.8]