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朝鮮半島出身者の遺骨問題 全面調査、資料公開が急務 東京都慰霊堂に50人以上

 東京都墨田区の横網町公園内にある東京都慰霊堂には、第2次世界大戦末期の東京大空襲などで犠牲となり身元不明のままとなっている同胞の遺骨が安置されている。名簿で確認できるのは約50人。だが、創氏改名されているので調査が困難な状況にある。

同胞の遺骨が安置されている東京都慰霊堂

 都慰霊堂は、関東大震災(1923年9月1日)の犠牲者5万8000人の遺骨を納めるため30年に建てられた。はじめは震災慰霊堂と呼ばれていたが、東京大空襲(44、45年)などによる犠牲者の身元不明の遺骨も併せて安置することになり、51年に改称された。都によれば現在16万2600人分の遺骨が安置されている。

 犠牲者たちは、同公園をはじめ都内約130カ所に仮埋葬された。遺体は48年ごろから探し出され火葬され、納骨堂を拡張して遺骨が奉安された。

 大空襲犠牲者のうち名前がわかっているのは約3700人で、1体ずつ骨つぼに収められている。そのうちの約20人が朝鮮名、約30人が朝鮮人と推測される名前だ。だが、ほとんどが名前すらわからず合葬された。この中に多くの朝鮮人も含まれていたことは容易に想像できる。

 東京朝鮮人強制連行真相調査団によると、都内の犠牲者は数千人にのぼるという。50人をはるかに超える数字が推測される。

「ゼロ回答」の都、再調査

住職の話を聞く「守る会」、総連、民団の関係者たち(昨年12月25日、群馬・西蓮寺)

 横網町公園は震災時、空き地だったため多くの人々が避難してきたが、そこに猛火が襲い約4万4000人の死者を出した場所。さらに、震災の惨禍でもっとも苦しめられ、虐殺された朝鮮人のための追悼碑も建てられている。にもかかわらず、都は日本政府からの遺骨の情報提供依頼に対し「ゼロ回答」した。

 都の担当部署(福祉保健局生活福祉部)職員は、名簿は公園緑地課が作成したもので、部署での調査に限界があり、把握できなかったとした。しかし、そもそも都に調査の意志があったのかどうか、疑問は晴れない。

 東京調査団は昨年8月に都庁を訪れ、正確な調査を申し入れた。応対した職員は、各市区町村と担当部署に「依頼書」を送ったと伝えたが、公園緑地課との連携が行われなかっただけでなく、新宿区や江東区では、担当部署の職員が調査団関係者の問い合わせを受けて初めて問題を認識するという事態も起きている。

 都は調査団の再三の申し入れに対し、重い腰を上げ昨年12月に再調査を約束。今回の慰霊堂内の公開にいたった。東京調査団は都に対し再調査に協力する旨を伝えている。

 また、東京調査団は昨年12月27日、新宿区を訪れ再調査を要請。応対した区職員は、「何ができるか、担当部署と議論していく」とした。

 東京調査団の李一満・朝鮮人側事務局長は「創氏改名された名前から朝鮮人かどうかを判断するには在日同胞の協力が必要。調査団としても都の再調査に全面的に協力したい」と語る。東京調査団は、専門部署・窓口の設置や資料の洗い直しを求めている。

70年以上、保管

 一方、群馬県藤岡市の西蓮寺で昨年12月、朝鮮人のものと思われる遺骨1体がみつかった。12月25日、「群馬県朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者追悼碑を守る会」、総連、民団の群馬県本部の各代表らが同寺を訪れ遺骨を確認し、過去帳を調べた。数十年にわたって遺骨を保管してきた艸香住職と住職の母親が遺骨について語った。

 住職の母の話によると、遺骨は1938年以前に付近でなくなって火葬されたあと、この寺に預けられた。1年に一度、供養し、骨つぼを包む風呂敷などをたびたび交換しながら約70年間、大事に保管してきた。骨つぼの包みには「柳龍雲」と記載されているだけで、それ以外の情報はなく、過去帳からも確認できなかった。

 3者は住職らに感謝し、北南の両政府に遺族を問い合わせるとしたうえで、遺族がみつかるか、あるいは本籍などの確認ができるまで、引き続き預かってほしいと申し出た。

 群馬県にはほかにも、太田市の金龍寺に11体、利根郡の月夜野に5体と23人分の埋火葬許可証などがみつかっている。

 群馬県の朝鮮人強制連行などについて調査してきた「守る会」の猪上輝雄事務局長によると、県内には延べ約7000人が強制連行などで働いた。だが、「遺骨が少なく、まだまだどこかに眠っている」という。(李泰鎬記者)

[朝鮮新報 2006.1.10]