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4カ月の平壌滞在を終えて 「強盛大国」の黎明が見える

 7月末から11月末までの4カ月間、特派員として平壌に滞在した。ミサイル発射訓練の実施、核実験の成功など、米国の強硬政策に対抗して朝鮮が一連の動きを示した時期とちょうど重なった。日本のマスコミは、今にも戦争が始まるような報道と「北朝鮮バッシング」を続けていたが、平壌をはじめとする朝鮮国内はいたって平穏な雰囲気に包まれていた。滞在期間に見聞したことを、核実験後の平壌と経済の2点に分けてレポートする。(李松鶴記者)

「驚くほど」の平穏

新築された貞伯協同農場の住居。毎年30棟ずつ建てていく予定

 核実験の実施を正式に発表した10月3日の朝鮮外務省声明、核実験が成功裏に行われたことを伝える同9日の朝鮮中央通信社の報道があった両日、平壌は「驚くほど」平穏だった。「驚くほど」とあえて強調したのは、当時の日本のメディアの慌てふためきぶりとはあまりにも対照的だったからだ。

 収穫期を迎えていた当時の平壌では、例年のように稲刈りを成功裏に終えるために奮闘するよう呼びかけられていた。核実験成功のニュースに触れた平壌市民は、「米国が核で脅している以上、私たちがそれを核で抑止するのは当然のこと」と口をそろえていた。そのうえで、「米国はこれで、6者会談に出ざるをえないだろう。いずれにしても、自力で核保有国になったことはとても誇らしい」と自負心を口にする人が多かった。

 とはいえ、朝鮮のメディアが好戦的な表現を使うことは決してなく、あくまでも問題は対話を通じて解決すべきだという従来の立場を強調していた。

 平壌では、稲刈りを手伝うために各機関から多くの人が郊外の農村に赴いたが、コメ、トウモロコシとも豊作だったようだ。農村に出向いたある人は、「いくら刈り入れてもまったく作業が進んだような感じがしなかった」と話していた。そのせいもあって、核実験の話題はあっという間に「忘れ去られ」、もっぱら収穫の話で持ちきりだったというのが正直なところだ。

 収穫を終えたあとの話題は「キムジャン」。夏場に日照時間が多かったことはコメ、トウモロコシにはよかったが、野菜、とくに白菜には悪影響を与えたようで、例年に比べると収穫量が少ないうえに葉が硬い。朝鮮では、キムチを漬けるのは女性だが、白菜の確保は夫の役割だ。この間、女性たちの間では「夫がどれだけおいしい白菜を確保するかによって、これから1年間食べるキムチの味が変わってくる」という話で持ちきりだった。

 核実験後、変わったことが一つだけあった。

 平壌を訪れる在日同胞の数が極端に減ったことだ。日本政府が独自に「制裁」を科したためだが、それでも神戸、東北、北海道、愛知、東京の各朝高生徒らが修学旅行で祖国を訪れたほか、7月には朝大の生徒らも訪問した。

 彼らは一様に「日本にいる両親に電話をするととても心配するが、朝鮮の現実に触れると取り越し苦労であることがわかる。日本のメディアの『北朝鮮バッシング』がいかに根も葉もないウソであるかが実感できる」と語った。

 在日同胞がほとんどいない平壌ホテルで、現在「多数派」を占めているのが、中国人企業家たちだ。彼らは朝鮮の工場、企業所と事業提携や契約を結ぶために来ている。国連の制裁決議に賛成した中国だが、実質的には有名無実。朝鮮の新義州と中国の丹東を結ぶ「朝中親善の橋」では、両国の人たちがひっきりなしに往来していた。

 また、南の民間団体、地方自治体代表団もひんぱんに訪北しており、ロシアやヨーロッパの代表団も後を絶たない。日本では一般的に「孤立無援の北朝鮮」と認識されているが、前述の生徒たちの言葉にもあるように、日本メディアの報道は、わい曲の域を超え、ねつ造に近いといえる。

 朝米間では6者会談再開に合意した。核実験成功後の平壌市民たちの「予想」が現実になったわけだ。今になって思えば市民たちがいつもと変わらぬ生活を送っていたのは、彼らなりの確固とした自信の表れだったのだろう。

朝鮮でも「産学連携」

ボイラーの補修に精を出す平壌火力発電連合企業所の労働者ら

 工場、企業所の現代化を推し進めるうえで、最近注目されているのが産学連携だ。

 朝鮮での産学連携は、大学をはじめとする研究機関が現場に赴いて問題を解決するのが主流だ。朝鮮には「2.17科学者、技術者突撃隊」という国家的機構が各工場、企業所で生じた問題を解決する。「突撃隊」には国家科学院や大学に籍を置く各分野のエキスパートが網羅されている。

 「突撃隊」の中でも、金策工業綜合大学と平壌機械大学のエキスパートはとくに現場での人気が高い。金策工業綜合大学科学研究部のリ・ウォンチル部長(62)は、「どんな難問でも、いとも簡単に解決してしまうのがうちの大学の先生たちだ。いまや私たちの大学は全国の工場、企業所に名の知られた『エキスパート集団』となっている」と分析する。

 端的な例として、現在建設中の三水発電所(両江道)の堤防設計があげられる。堤防設計に携わった同大学のエキスパートたちは、3次元設計を導入してコンクリートの使用量を当初の半分に抑えた。この設計を最初に見た時、現場はもちろん内閣でも不安だったようで、フランスからわざわざ専門家を呼んで設計の検討を依頼した。ところが、「このようなすばらしい設計士がいるのなら、私がいる必要はない」と太鼓判を押されたという。

 「このほかにも、外国から取り寄せた精密機械の修理を、国内の資材を使ってやってのけてしまうなど、例をあげればきりがない」(リ・ウォンチル部長)

 一方の平壌機械大学も引けをとらない。

 同大学には材料工学部、機械生産工学部、機械工業部など生産部門に直結した学部が多く、その分現場からの要望も多い。中でも鋳物分野では多くの資材、資金を節約し朝鮮独自の鋳物技術を完成させたことが高い評価を受けている。

 材料工学部のキム・ミョンシク鋳造工学講座長(44)は鋳物分野の第一人者だ。キム講座長は、国内の原料を使って世界基準の強度を持つ鋳物を低価格で作るための改良剤を発明することに成功した。

 「改良剤を混ぜることで、不純物を取り除くとともに強度を保つことができる。現在、ドイツ、フランスなどからも注文が来ている」(キム講座長)

 同大学では、エキスパートたちを現場に派遣する際に、ほかの生徒らも実習を兼ねて連れていく。キム講座長は、「大学で習うのはあくまで一般的な知識。たとえば、鋳物を作る際には、鉄や銅をはじめとする金属を溶かすことから始まる。しかし、金属を溶かす方法はいろいろあり、大学で習った溶解法が現場では適用できない場合もある。これをそのままにしておくと現場と大学の間に距離が生じてしまい、大学を卒業した生徒たちは現場ではまったく役に立たないという結果も招きかねない。生徒たちを一緒に連れていくことによって、このような事態を避けることができるばかりか、生徒たちの創意工夫を導き出すこともできる。一石二鳥だ」と、その理由について説明した。

 金策工業綜合大学や平壌機械大学の教授たちは、自分たちよりも若い世代の方が思考力において深みがあると口をそろえる。事実、30代、40代で工場や企業所の支配人(社長)や技師長になる人は多く、従来の枠にとらわれない新しい思考方法で業績を伸ばしているところも多い。

 このように、朝鮮の経済は土台がしっかり築かれながら、少しずつではあるが着実に活性化している。朝鮮中央テレビは最近、「強盛大国の黎明が近づいている。信念を持って前進」というサブタイトルのもと、成果を収めているさまざまな単位を紹介している。このサブタイトルが何を意味しているのか今はまだ定かではないが、「政治大国」「軍事大国」となった朝鮮が近い将来、「経済大国」にもなることを暗示しているのかもしれない。

「明日は何が変わる?」

「明日は何が変わる?」のスローガンが掲げられている平壌製糸工場

 朝鮮の人々の自信は、核保有国になったことだけではなく、活性化する経済活動によっても裏打ちされている。

 7月中旬の集中豪雨により、平安南道をはじめとする一部の地域が水害に見舞われたこともあって、稲刈りの前に会った農業省の関係者は、昨年比3.7〜4.6%の収穫減を見込んでいた。しかし、全体的な収穫高は公表されていないが、平壌市楽浪区域にある貞栢協同農場や順安区域の朝中親善テクアン協同農場では大豊作だったという。

 これらの農場では今年、自力で住居を新築したこともあり、喜びはひとしおだった。貞伯協同農場のホン・ソングク管理委員長(35)は、「今年は50棟の住居を新築した。来年からは毎年30棟ずつ新築していく」と述べながら、「一度計画したことをやりぬくという決意さえあれば、国家の手を借りなくても十分に潜在力を探し出し実現することができる」と力強く語った。

 102棟の住居を新築したテクアン協同農場のリ・チョンジク技師長(47)も、「全国各地から見学に来る人たちはみな、これほどの工事を自力でやったのかと驚く。中国大使館の職員たちはよく訪ねてくるが、去年とはまったく違う農場の姿に感動すら覚えると称えていく」と顔をほころばせた。

 一方、本格的な冬を迎える朝鮮では、電力の増産と節約が強調されていた。平壌市の電力を一手に引き受けている平壌火力発電連合企業所と東平壌火力発電所では、住宅の暖房をまかなう電力生産に主眼を置いている。

 平壌火力発電連合企業所では、水力発電が活躍する夏の間にボイラーの補修を終え、12機あるボイラーのうち、6機のボイラーを稼動させている。リ・ジョンナム生産副技師長(48)は、「12月からは20万キロワットの電力を生産する予定だ。現在稼動させていないボイラーは、補修を終えて現代化を最終段階で進めている」と語る。

 同企業所では、現代化を終えることによって蒸気生産量を従来比で20%増、着火用重油の削減などを見込んでいる。「夏に行った大補修は、これまでと質的に違う。資材や技術の不足をなんとかごまかしてきたのがこれまでの補修だったが、今年は、資材はもちろん技術的にも裏打ちされた補修を行うことができた。そのため、今年は求められる電力を100%以上まかなえると従業員たちの士気も高い」(リ・ジョンナム副技師長)

 「食」と「住」同様「衣」でも活性化は進んでいる。

 蚕から絹糸を生産している平壌製糸工場は、2000年から本格的に設備の現代化を始めた。これによって、製品の質と量が数段に向上した。同工場のキム・チュンシル技術副技師長(48)は、「絹糸の質は、A、2A、3A、4A、5Aの5段階で表示される。現代化する前は、うちの工場では一番低いAが平均だったが、今は3Aが平均で5Aのものも生産できるようになった」と語った。

 同工場にはほかの工場、企業所と同様、収めた成果を紹介する速報などが掲示されているが、それらと共に「明日は何が変わる?」というスローガンが掲げられている。

 「設備を現代化したのはもちろん、サウナや託児所、レストランなど労働者の文化施設もすべて自力で建てた。各地で蚕を飼っている農民たちが毎年2回ずつ訪れるが、来るたびに変貌する工場を見て感嘆している姿をヒントに、私たちが作ったスローガン」(キム・チュンシル副技師長)なのだそうだ。

 経済が活性化している一方で、米国などによる経済制裁で依然として厳しいこともまたひとつの事実。朝鮮での現代化は、このような現状に合わせて「蟻が砂糖の山を少しずつ崩す」ように、できるところから行っている。工場、企業所でもすべての職場をいっぺんに現代化するのではなく、職場単位で現代化を進めていく方式を取っている。

[朝鮮新報 2006.12.13]