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〈金英男さん、平壌記者会見B〉 「蓮池、地村氏に助けてもらった」

 Q 04年11月に日本政府関係者と会った際には特殊機関で服務していることを理由に、写真撮影は困るなど身元が明らかになることを避けていたが、今回公の場に姿を現した。また南の人間だという事実も、今回金剛山で家族と会うことによって公表された。職場では問題にならないのか。

 A 私は今でもこの席に出たいと思っていない。しかし、私の問題が朝鮮に圧力を加えることに利用されるのを見るに忍びず、またこれをなんとしてでも正さなくてはと思った。職場ではこの問題を深刻に討議し、私の意思を尊重してくれた。今後も私はそこで働くつもりだ。

 Q 薮中三十二氏に会ったとき(横田めぐみさんの)死亡の日付を訂正したという話をしたが、04年に日本政府代表団が訪問した時に訂正したのか。またそのとき具体的にはどのように訂正発言をしたのか。

 A その当時のことは正確に覚えていない。薮中氏が私に、めぐみがいつ死んだのかと聞いたので、94年だと答えた。

 私がめぐみの両親に送った手紙に93年と書いたこと自体覚えていない。後で日付が違うと関係部門の人が言うので、私がまちがったのだと思い94年と訂正した。

 Q 手紙は自分が直接書いたのか。

 A この問題が朝・日関係改善のために提起されたとき、ご両親に手紙を書けば良いと考えたのは私で、それを実行に移した。そのとき日本側は毛髪と血液を要求した。私は、特殊機関にいる私の身元が明らかになることを望まないため応じられないと拒否した。また手紙は書いたものの、筆跡が問題になるのではないか、(私のことが)外部に知られることになるのではないかと思った。それで関係部門の人に代筆してもらい(めぐみの)両親に伝えてくれるよう頼んだ。

 Q もとの手紙は今でも残っているか。

 A 手紙のために、問題がこれほど複雑になるとは思ってもみなかったので保管しなかった。

 Q めぐみさんから日本に関してほかに聞いた話はあるか。

 A めぐみは家系図を書いてくれた。父親は銀行に勤めていて、各地を転々とした話も聞いた。広島にもいたと言っていた。

 Q めぐみさんは日本に帰りたいという話を直接したことがあるか。

 A めぐみも人間で、私も人間だ。人間として故郷を恋しく思うのは当然だ。

 Q 具体的にめぐみさんが言った表現どおり話してほしい。

 A 故郷を思う言葉は一般的にみな似通っているのではないか。自分が生まれたところがどうだとか、故郷を再び見られれば良いとか、そのような会話をした。

 Q めぐみさんが入院したとき2度面会したというが、めぐみさんが亡くなるどれほど前に行ったのか。まためぐみさんが亡くなったあと、葬式はどのような形で行ったのか。

 A 面会の日付は正確に覚えていない。94年春に入院させ、4月に死亡するまでの間だったと思うが、具体的な日付は覚えていない。1週間から10日に1回ずつ行った記憶がある。めぐみ死亡の知らせを4月13日に受けた。もう少し長いことめぐみの姿を見ていたかったが、諸般の事情で14日に葬式をした覚えがある。妻を亡くした私は相当なショックを受け、正気ではなかった。私が放心状態にあったので関係部門の人がたいへん助けてくれた。

 Q 何人かの同僚とともに墓を掘ったと言うことだが、その同僚というのは同じ特殊機関に服務していたのか。なぜ墓を掘り出して骨を取り出したのか。めぐみさんの遺骸をいつ、どの火葬場で火葬したのか。

 A めぐみの遺骸は、病院の裏山に埋葬した。遺骸を移すのは私個人の問題なので、組織的ではなく個別的にしなければならないと考えた。それでめぐみが入院していた病院の周辺に住んでいる村人に手伝ってもらい、墓から遺骸を取り出したあと、すぐに火葬した。

 Q めぐみさんの遺骸を土葬したときに彼女の遺品も一緒に埋めたと言うことだが、それはどんな物か。墓を再び掘ったときにその遺品はどのような状態であったのか。

 A 私の記憶によれば、めぐみが持ち歩いていたマスコット人形と腕時計を埋めた。周辺の人が再び掘り出しくれた遺骸を移して火葬場に移したので、遺品よりはめぐみの姿を確認するのが先だった。だから、具体的にどんな品物があったかは記憶にない。おそらくめぐみの遺品は一緒に火葬したかもしれない。墓にあったものはみな持っていった。

 Q 葬式には誰が参加したのか。

 A その当時、私たちを担当した方と病院の方だったと思う。よいことではないので、質素に行った記憶がある。しかし担当部門の人や私は、最期を迎えためぐみが寂しがらないよう真心を尽くした。

 Q 地村氏や蓮池氏は葬式に参席したのか。

 A 蓮池氏や地村氏にはめぐみが病気のときに精神的にも助けてもらった。なぜか私は彼らにめぐみを専門病院に送りたいと話せなかった。めぐみが蓮池氏や地村氏と同じ日本人であったこと、私がきちんと世話してあげなかったのでこのような病院に送らなければならなくなった、という思いから相当躊躇した。しかし彼らは私の気持ちを理解してくれた。自分たちは構わないから、めぐみを入院させようと言ってくれた、彼らに手伝ってもらい、めぐみを入院させた。

 にもかかわらず、めぐみ死亡の知らせを彼らに伝えることは、なぜか躊躇した。めぐみが引き続き病院で治療を受けていると思わせた方が、むしろ彼らの生活にも良いのではないかと思った。それで彼らには知らせなかった。

[朝鮮新報 2006.8.4]