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金英男さん記者会見要旨 「家族問題悪用許せない」

 【高城発=金志永記者】28年ぶりに母、姉との再会を果たした金英男さんは6月29日、面会が行われた金剛山ホテルで記者会見をした。金英男さんは、「私と家族への内外の関心が高まっており、また一部で私についてよくない世論が出回っているようなので、事実を正確に伝えるため会見をすることになった」と説明した。会見には金英男さんの母・崔桂月さんと姉の金英子さんも同席した。約40分間にわたる会見の要旨は次の通り。

◇      ◇

 −北での生活

 私は北で本当に幸せに暮らしてきた。大学も卒業し、現在要職にも就いている。家庭を築き子ももうけた。娘のウンギョンは金日成総合大学の学生で、息子のチョルボンは小学生だ。妻は党学校で学んでいる。舅は平壌市人民委員会副委員長だ。

 私は現在、特殊部門で働いている。具体的には、統一関係の仕事だ。

 −入北経緯について

 夏休みを利用して仙遊島(全羅北道群山市)の海水浴場に遊びにいった。78年8月5日のことだ。

 そのとき、男友だちと一緒に女友だち2人を連れて行った。男友だちと楽しく遊んでいるところへ先輩2人が来て、私が彼女らに貸した録音機を使うので返してもらってこいと言って脅した。返してもらうのは自尊心があってできないし、かといって先輩も恐かった。考えたすえに海辺へ向かった。小さな丸木の船があったのでそこに隠れた。知らぬ間に眠ってしまい目覚めると、島が見えなくなっていた。そのとき、一隻の船が通った。船に乗っていた人に前日の話をしたところ、島まで戻るのは大変だ、自分たちと一緒に行ってそれから家に帰ったらどうかと言う。私は昨夜の出来事もあったのでそのまま船に乗ることにしたが、後にそれが北の船であることを知った。着いたのは南浦港だった。

 当時の私にとって北はとても恐ろしい所で、まず不安が先に立った。何日も眠れず食欲もなかった。だが、北の人たちが私を特別に扱ってくれたので次第に気持ちがほぐれていった。いろんな場所をまわるうちに北に対する認識が変わり始めた。とくに、無料で大学にも通え、病院での治療も無償だということに心ひかれた。当時、私の家庭は苦しかった。ここで少し勉強して帰ればいいとの思いで、北に残ることにした。

 −横田めぐみさんについて

 私は仕事の関係でウンギョンの母、横田めぐみと知り会った。めぐみから日本語を習った。仕事に必要だったからだ。そのときが確か86年初めだ。日本語を学ぶ過程で異性としてお互い好意を持った。

 86年8月にめぐみと結婚した。結婚してからの3年ほどは娘も生まれとても幸せだった。しかし、次第にめぐみに病的症状が表れはじめた。私が知るかぎり、彼女は結婚前からそのような症状があった。出産後、健康管理がうまくいかず病状が悪化した。うつ症状に加え精神分裂症が表れた。彼女を専門病院に送ったが、治療はうまくいかなかった。一時回復したとき病院を訪ねたが、医師は、うつ症状による精神分裂症はよくなったときに自殺を図るケースが多いと述べた。結局めぐみは病院で自殺した。94年4月13日に死亡した。

 めぐみについてはこれが全てだ。しかし、日本政府は私の言葉を信じようとしない。異なることを言って私を困惑させている。

 04年11月に平壌を訪れた日本政府代表団とも会った。そのとき、私はめぐみのことを詳しく説明した。そして日本側の懇願に応じて遺骨も引き渡した。当時、政府代表団団長は確認書まで書いた。私から直接遺骨を受け取ったこと、それをめぐみの両親に責任を持って渡すこと、そして(遺骨を)公開しないと自筆で記した。

 にもかかわらず、日本の人たちは遺骨をあちこちで公開し感情をあおり、「偽物」だと主張しはじめた。これは夫である私とめぐみにたいする侮辱であり耐えがたい人権じゅうりんだ。どうしたら生きた人を死んだと言えるのか。私も私の家族もそんな嘘はつけない。結局彼らは私を引っ張り出し、北に反対する不純な政治的目的を追求しているとしか思えない。

 −ウンギョンさんについて

 娘の本名はウンギョンだ。幼い頃は「ヘギョン」というあだ名で呼ばれていた。娘にはめぐみの問題が拡大するまで話をしなかった。だが、問題は大きくなってしまった。大学にも行かねばならず思春期で、衝撃は相当大きいと思った。娘の私生活が社会に公開されるのはよくないことと判断した。なので、私が「ヘギョン」に改めた。

 日本にいる祖父母がウンギョンを日本に送り返してほしいとの意向を示していることについて、私としてはその要求自体納得できない。ウンギョンはめぐみの娘であると同時に、私の娘だ。また、現在日本当局の対応から送ることはできない。本人も行かないと言っている。

 娘は有名になったが、そうなった動機や趣旨は父親としては心外だ。私に対する関心も同様だ。いい面での関心ならばうれしいが、私の問題で北に迷惑をかけるような関心ならしないでほしい。むしろ関心がないほうがいい。

 −記者に対する「お願い」

 第1に、私が今日述べたことを正確に報道してほしい。今日述べたことは今まで誰にも明かしたことがない。元々公開するつもりはなかったが、記者から質問が提起され世論の関心も高いことから今回公開することにした。

 かつて、私の入北問題についてさまざまな話が出たが、今日この場を通じて正確な見解も持ってほしい。 入北は拉致でもなければ自ら願いでた越北でもない、対決時代に偶然起きた突発的なものだ。北は不可避な状況の中、私を助けるため北に連れて行ったのだ。入北後、迫害はおろか特別待遇をしてくれた。

 第2に、私と家族の問題が不純な政治目的に利用されるのを防いでほしい。今、一部で私と家族の問題を政治化、国際問題化し北を反対するのに利用しようとしている。私はそのようなことを望まない。静かに暮らしたい。私に生活の場を与えてくれ育ててくれた北を反対するのに私の問題が利用されるのには耐えられない。

 多分、母と姉も私と同じ見解だと思う。今回、私と母、姉との面会が果たされた。家族と関連した問題が公表された条件で、これ以上他人が干渉することはないと思う。私の問題はこれで幕引きにしてほしい。

 第3に、未来志向的な観点から今回の結果をきちんと報道してほしい。過去、対決の時代に北南間にはさまざまな事件が起こった。その過去は6.15をきっかけに北と南がすべて払拭した。今は和解と協力、統一の時代だ。今さら過去史を追及するのは何の利益にもならない。北と南にいるわが民族は誰もそれを望んでいない。今回、母と姉もそう言っていた。家族が望まないのに誰かが掘り起こそうとしているのならそれは目的がほかにあるとしか考えられない。

 今、日本は私の問題で南側と「連携」を画策しているが、彼らの本心は北に対する謀略にある。いい方向に発展している北南関係の拡大にくさびをうち、民族内部に不信と不和、対決を作り出そうとするものだ。家族として不快で仕方ない。絶対に巻き込まれてはならないと思う。

 −南の家族との「再会計画」について

 今回母と姉に会い、8月に「アリラン」公演が行われる際、平壌にきて私がどのように暮らしているのか一度自宅を訪れてはと言った。母が平壌の嫁がこしらえた食事も食べて、孫たちと楽しく過ごせればいい。そのとき、平壌にいる姻せきとも会えるだろう。母と姉は平壌に行くことを約束してくれた。これ以上望むことはない。あるとすれば、今回私たち家族の面会が少しでも統一に役立てばという思いだけだ。

[朝鮮新報 2006.7.4]