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〈朝鮮の被爆者〜告発(中)〉 広島で被爆 リ・ゲソンさん(65)

 【平壌発=李相英記者】子どもの頃から下痢にひん繁に悩まされた。帰国後もその症状は続いた。大学在学中に2カ月間入院したこともある。

 大学卒業後も体調不良のため職場にろくに通えなかった。病院で治療を試みたが、回復しなかった。若い頃は貧血がひどく数カ月も起き上がれないこともあった。関節も悪く少し歩いただけで痛みを感じるため、外出すらままならなかった。

 結局自宅療養することになり、体調が良いときだけ職場に出て働いた。何度も手術をしたせいで体が衰弱し満足に働けなかった。にもかかわらず被爆者であるとは思いもよらなかったので、体が弱いせいだとばかり思っていた。

 被爆者であると知ったのは2004年。日本で暮らす妹が初めて祖国を訪れ、44年ぶりに再会したのがきっかけだった。

 妹は体調のすぐれない私を心配して、日本に戻ったあといろいろ調べてみたそうだ。その過程で母が「被爆者手帳」を所持していたことを知ったという。市役所で父に関する資料を探してみたところ、父と私が被爆者として登録されている事実を確認したというのだ。私は「朝鮮原子爆弾被爆者協会」から会員手帳を受け取ることになった。

 父は消化器系統の疾病を患い日本で亡くなった。母は現在広島で暮らしているが、後遺症で治療を受け続けている。私の長男も泌尿器系統を患っており、娘がやっと産んだ孫も体が弱い。

 広島に原爆が投下された当日、私たちは家族で勤労奉仕に出ていた。当時4歳だったのでおぼろげにしか覚えていないが、父と私は労働現場に行く途中で被爆したようだ。両親は私の将来を気づかってか、被爆に関する話はほとんどしなかったので、被爆者である事実を長い間知らずにきた。

 被爆1世に残された時間はわずか。朝鮮と日本の国交が正常化していないので、朝鮮に住む被爆者が日本に行くのは難しい。しかも、被爆者はみな高齢だ。しかし、日本で被爆者として登録されているから、治療を受ける資格はある。どんなことをしてでも治療を受けたいと思う。

 日本政府が朝鮮で暮らす被爆者たちに補償するのは当然のことだ。一日も早く朝鮮国内で必要な治療を受けられるよう措置を取るべきだ。

※1941年慶尚南道生まれ

 4歳のとき広島で被爆

 61年帰国

 平壌市万景台区域在住

[朝鮮新報 2006.5.23]