北九州朝鮮初級の日本人バス運転手 久保哲男さん ウリハッキョ生徒の笑顔見続け22年 |
「安らぎの場、元気の薬」 いつも遠賀地域の同胞と苦楽を共に
北九州朝鮮初級学校で通学バス運転手を一日も休まず22年間、続けている日本人がいる。久保哲男さん(68)。子どもたちは「遠賀アジョシ(おじさん)」と呼ぶ。九州の同胞の間では知らない人がいないほどの名物アジョシだ。現在は遠賀郡、若松区、八幡西区から通う生徒たちを朝と夕の2回、送迎している。「朝鮮学校の子も日本の子も変わらない。みんなわが子のよう。子どもの笑顔を見るのが楽しみでやってきた。これが私の生きがい」とほほ笑む。 遠賀郡在住。総連福岡・遠賀支部の近くに住んでいるため、同地域の同胞たちと自然に親交が深くなった。その歴史も長い。 「同世代の在日朝鮮人が若い頃、北九州の鉄工所や製鉄所、炭鉱などでたくさん働いていた。私も製鉄所で共に働き、酒を酌み交わしながら過ごしたから、在日朝鮮人の親友がたくさん生まれた」 製鉄所の構内にホルモン屋がたくさんあった。久保さんはそこで在日同胞たちと皿いっぱいのじゃがいもとホルモン、1杯30円の焼酎をよく飲んだことが忘れられないという。 そして46歳の時、在日同胞の親友から「朝鮮学校のバスの運転手を1、2カ月でいいからやってくれないか」と頼まれた。 ちょうど仕事が切れていたのも重なり短期間ならと了承。これが朝鮮学校のバス運転手人生の始まりだ。 「毎朝、子どもたちの元気な笑顔を見るとやめられなくなって。自分がいなくなったら誰がこの子たちの面倒をみるんだろう、そんな気持ちにさせられてね。久しぶりに会う卒業生たちのたくましくなった姿を見るとうれしくなる」 久保さんは学校、生徒、教員、学父母たちと歩んできた思い出を淡々と語り始めた。 「昔は朝鮮学校の生徒たちは日本学校の生徒とケンカばかりしてたね。いつも仲良くしろよって思ってたけど、今なんかとってもいい生徒、先生ばかり。北九州初級、九州中高の先生の中にも初級部の頃にバスに乗せた子がたくさんいる。先生になって母校に帰ってきた姿をみるととてもほほ笑ましくなる。これがバスの運転手をやめられない理由です」 学校教育にも関心を寄せる。自分の国の言葉や文化、歴史を学んで育つことがとても大切だと語る。「極端な話だけど、そこらへんでズボンを垂らしてはいてる日本学校の生徒なんかどうも好かん。ここにはそんな生徒一人もおらんよ」。 こんなこともあった。遠賀支部に置いたバスを朝取りにいくとフロントガラスに糞がつけられていた。「あの時は本当に腹がたってね。誰がやったかわからんけど、北朝鮮の報道を見てよく思わない日本人かもしれないね…」。
「遠賀のトンポ(同胞)たちがとてもよくしてくれている」と感謝の気持ちを忘れていない。毎年3月になると遠賀支部の同胞と北九州初級に通う子ども、親が集い、卒業生と新入生を祝って集まり食事を楽しんだ。同校は04年5月に北九州市八幡西区に新校舎を建設して移転。と同時に04年3月を最後にこの集いも終了した。今は遠賀支部の花見で子どもたちを祝う。 「今回の集まりで運転手の仕事を区切ろうと思って行くんだけど、『これからも続けてほしい』と言われるとどうも断りきれなくてね。でも、そういってくれるのがとてもありがたい。大事な子どもを預かっているから、その子どもを笑顔で迎えて、家まで送ることが自分の仕事です」 久保さんは今までいろいろな生徒と親を見てきた。家庭環境も知り尽くしている。もしかしたら、どこの誰よりも遠賀地域の同胞たちのことを知っているかもしれない。 「経済的に難しくて朝鮮学校に送れない家庭も知っているし、いろんなことで苦労している家族もいる。そんな影響を受けてか、子どもたちもなんか憂鬱な気持ちでいるような時がある」 バスに乗せる親に言っていることがある。それは「朝一番は、怒って送り出さないこと」。これが久保さんからの助言だ。 「朝から子どもが笑顔だと、その一日が子どもにとってもとても楽しい一日になると思う。朝から叱られた子どもはしゅんとしていて、一日がとても憂鬱になる。だからオモニたちには『子どもに笑顔を作ってやってくれ』といつも言ってきた。これはとても大事」 久保さんも実は苦労人だ。「本当に昔は貧乏で苦労の連続」。高校2年の時、学費が支払えずやむなく中退した。「本当は辞めたくなかった。人生で3本の指に入るぐらい悔やんだ…」。生計を立てるためいろいろな所で働いた。 そんな苦労をしたからこそ、人に対して誰よりも優しくなれるという久保さん。「子どもたちにはしっかり育ってほしいと思い、心を持って接してきた」。たくさんの愛情を注がれてきた子どもたちはすくすくと育っている。 今年4月、新しいバスでの送り迎えが始まった。遠賀支部の同胞たちがコツコツ貯めたお金で新たに通学バスを購入した。 運転手をはじめた頃、生徒たちはたくさんいたと振り返りながら、「今は少ないけど、またいつかバスいっぱいに子どもを乗せて走りたい」と願う。 「トンポたちががんばるから、自分も子どもたちのためにやらなきゃって。安らぐ場所であり、自分が元気でいられる薬。やりがいあるしとても満足できる仕事です」(金明c記者) [朝鮮新報 2006.4.22] |