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〈第48回朝鮮大学校卒業式の祝賀宴で〉 16年間 寄宿舎で生活した2人の学生、共に母校の教壇へ巣立つ

4年間の大学生活を寄宿舎で過ごした思い出は、学生たちにとって一生忘れられないものだ(10日、朝鮮大学校卒業式で)

 日本各地の朝鮮学校には、寄宿舎で生活する生徒が今でもたくさんいる。実家から遠く離れた寄宿舎に送る親の気持ちはいかばかりだろうか−。3月10日、朝鮮大学校を卒業した学生のうち、2人が初、中、高、大と16年間、寄宿舎で育った。文学歴史学部の金鉉太さんと張穂慶さんだ。それぞれ共に4月から教員として母校に赴き、また寄宿舎で生活をスタートさせるという。昼食をかねて行われた祝賀宴でスピーチに立った2人のアボジは、「立派な教員として子どもたちをしっかり育ててほしい」と語り、さまざまな思い出話に感極まった2人の目からはとめどなく涙があふれ出ていた。(金明c記者)

「ウリハッキョに恩返しを」、金鉉太さん(文学歴史学部歴史地理学科)

アボジの思い出話に涙する金鉉太さん

 金鉉太さんの実家は秋田県にある。東北朝鮮初中高級学校の初1から仙台の寄宿舎に入った。「当初は正直、寄宿舎での生活はつらかった」。

 右も左もわからないまだ幼い6歳の子が、慣れない場所で生活するには確かに時間がかかる。

 「学校生活を楽しく感じられるようになったのは中級部になってから。それからは友だちといる時間がとても貴重で大切だと感じるようになった」

 鉉太さんは三日に1回かかってくる親からの電話がとてもうれしかったという。「電話がとても待ち遠しかった。食料や衣類などが入ったダンボールをいつも送ってくれたこともありがたかった」。

 アボジの金孝星さん(51)も同じ東北初中高卒業生で寄宿舎育ち。金さんは当時を感慨深く振り返った。「月に1回は学校を訪ねていった。冬は雪がすごくて6時間もかけていったことを思い出す…」とスピーチで声をつまらせた。

 つらかったことは「ランドセルを背負った子どもの姿を見られなかったこと」と語る。そしてこんなエピソードを話してくれた。

 「入学式の時、初1の子がタクシーで帰る親を泣きながら追うんです。その時は『絶対に子どもはウリハッキョに入れない』って強く思ったけど、ふたを開けてみれば自分が送っていた」

 そして息子を横目に、「寄宿舎に入って友だちがたくさんできたし、ウリハッキョの先生、学校全体が息子をこんなにたくましく育ててくれた。これからは、自分たちが民族教育の現場でしっかりとした子どもを育ててほしい」と語る。

 東北初中高で4月から教鞭を執ることになった鉉太さんは、「育ててくれた親にとても感謝している。これから子どもたちには正しい民族の歴史を教えていきたい。そして愛情深く見守り育てていくことで恩返しをしたい」と誓っていた。

「次は自分が愛情を持って」、張穂慶さん(文学歴史学部語文学科)

張穂慶さん(中央)も「親の愛情をいつも感じていた」と涙した

 張穂慶さんは福島初中、東北初中高の寄宿舎で生活した。文学部に入ったが1年後には歴史地理学部と統合し、文学歴史学部に。その時、鉉太さんが歴史地理学部だったため、東北朝高時代に一緒だった同級生とまた同じクラスで学ぶことになった。

 祝賀宴で「何か運命的なものを感じますか?」との司会者の問いに「はい」と答え、みんなの笑いを誘っていた。

 「運命」を感じるのはこの2人だけではない。穂慶さんのアボジの張泰昊さん(50)も、東北初中高出身で金孝星さんと同級生だ。子どもを16年間も寄宿舎に通わせ、卒業式の場でこうして巡りあうことに、周りの学父母らも驚きを隠せないでいた。

 泰昊さんは、「そりゃ幼い子を寄宿舎に送るのはつらい。だけどこうやって立派に育った娘の姿を見るとウリハッキョに感謝しないといけない。これから教員として3、4、5世の子どもたちをしっかり育ててくれることを願っている」。

 穂慶さんは涙をこらえ「親は近くにいなかったけど、ダンボールを16年間も送り続けてくれたし、幼い頃の学芸会に来られない時は電報を必ず送ってくれたりして…。言葉では全部言い表せないけど、すべてに愛情を感じていた。次は自分が寄宿舎の生徒たちに愛情を注いでいきたい」と語った。

 「(寄宿舎に)初めて送った日の夜なんか、思い出すとなんともいえない気持ちになる…。でも涙より与えてくれた喜びの方が大きい」と話すオモニの劉美順さん(46)。ウリハッキョが娘を育ててくれたと何度も強調しながら、「今は寄宿舎に子どもを送るのがとても難しい時代と思うけど、成長した姿を見ると本当にウリハッキョに送ってよかったと思えるはず」と目頭を熱くさせた。

[朝鮮新報 2006.3.18]