〈原告の証言から−下〉 京都 在日同胞高齢者無年金訴訟 |
鄭在任さん(85) 14歳の時に父を頼って日本へ来ました。私と母、当時10歳になっていた上の弟、赤ん坊だった2番目の弟と一緒でした。父は仕事をさがして福井やあちこちを転々として、土方とかをしていたようでした。 17歳のとき、母の親せきを頼って大阪の高槻に来ました。そこでは、父は仕事がなく、母は畑仕事をしていましたが、差別が厳しく、いじめられ、住みにくくていられなくなりました。それから1年も経たないうちに、京都の西大路七条あたりに、30軒ほど固まって住んでいた父の親せきを頼って引越ししました。長い間、親せきが3軒ほど残っていましたが、今はみな亡くなっていません。父や親せきは、土方や馬車を引いてゴミを運ぶ仕事をしていました。暮し向きは、口で言えないくらい苦しいものでした。 私は18歳の時に見合いし結婚して京都市南区上鳥羽で住んでいました。最初は、夫の両親、夫の弟、妹4人、私たち夫婦2人の8人が6畳、3畳に押し入れ2畳の家に住んでいました。この家で私は20歳のとき長女を生み、3日後に夫の母が夫の妹を生んで10人家族になりました。それから、私たち夫婦に2人の子どもが生まれました。 その後、戦争が始まり、食べ物が無くなりました。夫は、私たちの生活のため土方をしたりしました。 戦争中、夫の父が、子どもたちを軍属としてやられるのを避けるために、軍隊の仕事を請け負って、軍隊について一家であちこちまわって、飯場をやって仕事をしていました。私は、飯場の飯炊きをしていました。 私たちは、親せきを頼ってもう一度京都へ戻り、そこで1945年8月15日の解放を迎えました。戦争が終わり、仕事がなくなり、食べるのに必死でした。解放を喜ぶどころではありませんでした。戦後まもなくして最初に生まれた男の子が1歳半で亡くなりました。 東九条に住んで、くず鉄やぼろ布を集めて、より分けて売ったりしました。その仕事がだめになって家を追われた時は、子どもを抱えて寒い冬に外で寝たりしたこともありました。日雇い仕事を探してもなかなか使ってくれませんでした。 子ども3人が東和小学校に通っているときに、ようやく京都朝鮮第1初級学校ができました。子どもたちはみな、朝鮮語や朝鮮の文化を勉強したのです。 私たちは、夫の弟2人、妹2人を結婚させていかなければならず、その後は息子、娘6人を大きくさせて、結婚させていかなければなりませんでした。私たちは休む間もなく働きました。 私には狭心症の持病があります。5年前に子どもたちと離れ、生活保護を受給することを決め、2001年11月に現在の団地に移り、現在に至っております。 今年から福祉(生活保護)が約7000円も下がってしまい、ビックリしました。昔ずっと、半腰の姿勢で仕事をしていたのと交通事故のために腰痛があり、マッサージに行っていましたが、全く行けなくなりました。今、腕がしびれてうずいています。 昔、食べ物がない時代に、自分でもこれだけ、ようやってきたと思います。今から振り返ったらゾッとします。今、裁判に立っているのは、みんなのためやと思ってがんばっています。 金君子さん(77) 私が日本に来たのは、1931年1月2日、2歳の時です。植民地支配の下で働き場所がなかった父が、先に日本に出稼ぎに来ていました。それで、母に連れられて父を追いかけて来たのです。 父は、守山、野洲など滋賀県内の飯場を転々としていましたが、その後、大山崎町の鉱山で発破の仕事をして働くようになりました。父一人の稼ぎでは、祖父母、子ども6人を含む家族を養うことはできませんでしたから、母もぼろを集めて売っていました。 小学校卒業後、松下電器の下請けで電池の枠を作る仕事に就きました。それからまもなく解放の日を迎えました。1946年12月、17歳のときに見合いをし、翌年の1月に結婚することになりました。夫の両親と夫と私の4人で生活しました。義父はウトロにあった民族学校の教員をしており、義母は朝鮮女性同盟の活動を熱心にしていました。夫がスクラップの仕事で家族を支えていました。やがて、義母が男の子を産み、その2年後に義母と私があいついで男の子を産み、その下に私の産んだ女の子が2人います。この5人の子どもたちをみんな一緒に私が育てました。 夫はウトロに来てからは、日産車体の下請けのスクラップの仕事をしていました。1957年8月23日、夫は事故に遭いました。枝ハンドルが脇腹にぶつかったそうです。医師からは入院を勧められたのですが、夫は医療費が高額だからとそのまま帰宅しました。ところが翌年1月7日、容態が急変し、結局、1月9日に、30歳の若さで亡くなりました。 夫が亡くなってから、夫の家族と私の子どもたちを養うため、とにかく働かなければなりません。周りの人に聞き、職安で仕事があると教えてもらいました。そこで、子どもを保育所に預けて、失業対策事業で働くようになりました。道路工事、コンクリート舗装、側溝工事、草刈りなどなどいろんな仕事をしました。肉体労働が多く、きつい仕事でしたが、家族のためにがんばってきました。 働いたお金の中から月々少しずつであれば、年金をかけることもできただろうと思います。私の手取りは毎月7万円くらいなので、高い金額をかけるのは無理ですが、少しずつなら払えます。実際、今、私の少ない給料の中から毎月介護保険料約4000円と国民健康保険料約1700円を支払っています。 もう少し年が上であれば、京都府と宇治市から在日高齢者への特別給付金を合計1万5000円もらえるそうです。でも、私は少し年齢が足りないのでもらえないのです。年金ももらえず、給付金ももらえない私たちの世代はどうしたらいいのでしょうか。 日本でずっと働いてきて、税金もずっと納めてきたのに、今でも年金ももらえないので、この年でも仕事をしています。たとえ数万円でも年金があれば生活も楽でしょうし、無理して仕事をしなくても済むかもしれません。そこそこの会社に勤めていれば、自動的に会社が年金をかけてくれたでしょうが、朝鮮人がそこそこの会社に勤めることなど、私たちの頃にはほとんどありませんでした。何かにつけて「あかん」と言われ続けてきたので、年金のことも「朝鮮人やからもらえへんわ」と思っていました。でも、そうやってあきらめていては何も変わらないと思って、この裁判に参加することにしました。 私たちの訴えをきちんと聞いてくださるようにお願いします。 [朝鮮新報 2006.7.4] |