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〈原告の証言から−上〉 京都 在日同胞高齢者無年金訴訟

同胞の苦難、伝えるため

 日本が国民年金法創設時に国籍要件を設け撤廃後も経過措置をとらなかったことによって、無年金状態に置かれている京都の同胞女性5人が、日本政府に国家賠償を求めている「同胞高齢者年金訴訟」の第8回公判が8日、京都地裁で行われた(次回は9月28日、結審予定)。前回の2人に続き、3人の原告が証言した。その要旨を2回に分けて紹介する。

高五生さん(85)

原告のハルモニたち

 私は女手ばかりの農家に育ちました。父は、私が物心ついたときにはすでに日本におり、聞いたところでは苦しい生活を支えるために、九州の炭坑で働いているということでした。農家の仕事は力仕事ですし、もともと小作農であったため財産もなく、父がいない状態での生活は苦しくなる一方でしたので、私は13歳のとき、妹1人と連れだって、父を頼って日本に渡ってきました。

 私は17歳のころに結婚をしています。相手は近所に住んでいる、父の知り合いの男性で、15歳も年上であるうえに、連れ子もありました。親子3人でなんとか自活できるように、叔父のところを離れ、くず鉄拾いの仕事をしたり、傘はりの仕事を手伝ったりと、仕事と住まいを転々としながら、生きていくのが精一杯でした。

 私が京都にたどりついたのは、そうした生活を何年か続けたすえのことです。西陣で「紙箱造り」の工場に入り、近くの家に間借りして住んでいました。夫は箱を作って配達するためにリヤカーを引いて市内中を歩き回り、私は箱作りの内職をするという二人三脚で働きづめの日々を過ごしました。その後、東九条に移り、何人かの同胞で集まり、工場を借りて砥石屋の仕事を始めたのです。砥石屋の仕事は、みんなで力を合わせてがんばった甲斐があって、2〜3年もすれば軌道に乗りました。しかし戦況が悪化する中で、工場自体が徴用されてしまったため、それからはくず鉄屋の仕事をして何とか生活していました。

 戦争が終わったとき、私はこれで故郷に帰れるという思いでいっぱいでした。私だけでなく、同胞の誰しもが、「帰ろう、帰ろう」という感じで、もうすぐにでも帰れると思っていました。しかし、私たちはこのころまでにはもう故郷を離れて久しく、朝鮮全体も安定していない情勢で、住んでいた土地もどうなっているかわからない状態でした。ほかの同胞も同じ状態で、気持ちとは裏腹に、ほとんどの人が帰るに帰れない有様でした。

 朝鮮自体が安定しないことや、そもそも帰るための船の番も回ってこないこと、せっかく船に乗っても無事に帰れる保障もないことなどや、夫の兄が収容所に入れられたことなどを考えると、私も夫も、すぐには故郷に帰ることができませんでした。それでもこんな時代は長くは続かず、いずれ統一した国ができれば、安心して帰ることができると思っていました。

 そうして過ごしているうちに、朝鮮に帰るための船が沈んだ話(「浮島丸事件」)や、故郷の済州島で内戦状態になっている話(「済州島4.3事件」)を聞いたりして、私たちはすぐに帰ることについてますます不安になり、帰りたくとも帰れない、という状態が長く続くことになったのです。

 そうして私は、いつか故郷に帰ろうと思いながらも、日本での生活を続けるため、東九条にとどまり、闇市を横目に、くず鉄拾いの仕事を続けました。地道な仕事でしたが、戦争が終わってからしばらくすると、鉄の需要がどんどん高まり、10年ほど働き続けるうちに、遠方からの持ち込みを受け入れたり、住み込みで手伝ってくれる人も増えて、裕福な暮らしではありませんでしたが、順調に進むようになりました。その結果、気持ちとは裏腹に、私は日本での生活の基盤を固めることとなったのです。

 私たちのように、故郷に帰ることを夢見ながらも、それまでの間の生活を維持するためにがんばり、日本で子を産み、育てた同胞もたくさん出てきました。夫は仕事が順調になったころから、こうした子どもたちのために、民族教育をすることに熱心になり、学校の関係者に家を開放したり、食事の面倒を見るなどのボランティア的な活動に没頭して、生活の糧を稼ぐのは私一人の役目になりました。

 くず鉄拾いの仕事は、戦争が終わってから20年ほどの間、続けてきました。子や孫の世代のために活動している夫を支えることを生活の中心にしていきました。その後、パチンコ店経営をはじめましたが、10年ほどの間で、夫が亡くなり、3年後には息子も亡くなり、もともとうまくいってなかった経営は、結局失敗に終わってしまいました。それ以降、私は孫ともバラバラになって暮らしています。

 私は10年以上の間、私自身で年金の保険料を納付してきました。というのは、夫が生前、厚生年金の保険料をかけていたと思っていたからで、亡くなってからあと、残りの期間を代わりに納めれば、年金をもらえると思っていたからです。しかし実際のところ、夫は厚生年金に加入しておらず、私が支払った保険料は、あと2〜3年足りないというところで、全部掛け捨てになってしまいました。

 くず鉄屋を廃業して、事業も失敗し、年金も受けられない状態なので、私は現在、福祉を受けて生活しています。私自身は、これ以上のお金が欲しいと思っているのではありません。しかし、まわりにはたくさんの同胞がいます。私と同じぐらいの年齢になっても、年金を受けられないので、お風呂に行くのにも子どもからお金をもらって通っているというような人たちです。私には、こうした人たちが、どうして日本に定住して、どうしてそのような生活をせざるをえなくなっているのか、どうしても伝えないといけないという思いがあるだけなのです。この思いを伝えることが、この裁判の目的にほかなりません。どうかこの思いが届きますようにと、心の底から願っています。

[朝鮮新報 2006.6.27]