同胞高齢者無年金裁判での原告の証言 「日本人と同等の権利を」 |
既報のように、同胞高齢者の無年金問題訴訟の第7回公判が11日、京都地裁で行われた。同訴訟は2004年12月21日、京都市と宇治市に在住する玄順任さん(79)、鄭福芝さん(88)、高五生さん(85)、鄭在任さん(85)、金君子さん(77)らが原告となり、国が「日本国籍を有しない者」であることを理由に、原告らを老齢年金が受けられない無年金状態に置いたことに対し国家賠償を求めているもの。公判での玄順任さんと鄭福芝さんの証言の要旨を紹介する。 年金もらえないのは不公平 玄順任さん 朝鮮人が何を悪いことをしたのか、根本を裁判長に教えてほしいのです。「朝鮮、ナップン、帰れ」といつも5、6人が集まってきて袋叩きにされて踏みにじられました。「ナップン」は「悪い奴」という意味です。 原告になろうと思ったのは、ずっと言いたかったこと、誰も聞いてくれなかった、胸のうちにしまっていたことを言えると思ったからです。日本の植民地政策により、家族のすべてのものが奪われました。日本政府はそれを清算しないで、働いて税金納めてまじめに生きてきた私たち朝鮮人を差別しています。「悪い奴」のレッテルをはがしてほしいのです。 父は、土地を5分の4取られ、残りの土地を耕し供出させられ、その上、税金まで取り立てられ、払えないと言うと警察に捕まり拷問されました。保証人を立て借金して税金を払えと言われましたが、できないと言うと日本で稼いで税金を払えと言われて、日本へ出稼ぎにきました。そして、私は1歳8カ月の時、父と一緒に暮らすために母と日本へ来ました。父は日本語をまともに話せませんでしたが、信用を得て石炭運びの仕事に入り、社宅に住めるようになりました。私たち家族が入ると、それまで住んでいた日本人がみな出て行ってしまったので、父は住む所がみつからない在日の人をよんで住まわせていたそうです。 私は学校へ行けませんでした。親にハンストしてまで学校に行きたいとせがんだのですが、父から「税金払わな、日本人に殺されるんや」と言われ、あきらめました。だから、朝鮮の子の教科書をもらって、子守りの合間にトイレで勉強しました。 私が8歳の頃、父が保証人になっていた朝鮮人の子どもが奉公先で盗難事件に巻き込まれ、十分な調査もないまま日本語がわからない子どもに罪を着せられ、懲役刑になりました。そのため、父は下鴨署に引っ張られ拷問を受けました。警察から連れて帰れという連絡を受けて母と二人で行くと、「女子どもが連れて帰れるか」と怒鳴られ、代わりにおじ2人が板の戸を持って迎えに行きました。父は半死状態でもう息をしていないようでしたが、ほぼ一日、酢を口に含んで父の顔に吹きかけていたら意識を取り戻しました。しかし、仕事もなくなり、社宅も追い出され、数年間、父は患いながら、借金して買った屋台車で焼き芋を売り、母は土方仕事をしていました。 母は一日中水に浸かって土方をしていて産後の肥立ちが悪く、私が11歳の時5人の子どもを残して亡くなりました。1944年に、私と姉以外の家族は国に帰りました。家族に何も持たないで帰らせるのは忍びないと思い、それまで働いて貯めたお金と職場で借金して父や妹弟に服等を持たせました。 私の夫は、日本へ強制連行されて来ました。7人兄弟の長男で、母は早くに亡くなり、父は病弱であったため、夫が一家の大黒柱でした。徴用の通知がきて、数人が夫を捕まえ連れて行こうとするので、夫の父が「一家の働き手だから堪忍してくれ」と言うと、「この非国民め」と言って蹴り飛ばされ、夫は逃げられず、日本に連れてこられ、枚方の火薬工場で働かされました。夫は無休、無月給で働かされ、いつも空が黄色く見えるほど空腹だったそうです。 私は、今も西陣で帯を織る仕事をしています。家に機械を2台置いて、一日6時間、注文があれば土日もやっています。それでも稼ぎは自分一人も養えません。10代から見習いで織屋に入り、すべて習いました。技術職といえども差別はありました。「良い人が来てくれた。チョーセンが来たらどうしようと夜も寝られなかった」と面と向かって言われたこともありましたが、家族を養うため、朝も晩も帯を織ってきました。 年金制度ができたとき、近所の人に誘われて加入手続きに区役所へ行きましたが、「国籍が違うからあかん」と言われました。その時は、あかんと言われたら、昔からそういうことされてるから、あかんもんは言うてもあかん、しゃあないと思い、何も言わずに引き下がったけど、やっぱり悔しかったです。 1986年、年金がかけられるようになったことは、全然知りませんでした。その当時、夫が病気で入退院を繰り返していました。間もなく夫が亡くなり、入院費とその後のお金がいろいろとかかって大変でしたから、その時、加入できることを知っていたとしても、60歳の自分が払えるお金はありませんでした。 京都市で無年金者に対する給付金制度ができたことは、京都市広報を見て知りました。自分は無年金ですが、誕生日が数カ月違いでもらえないとわかりました。でも、在日同胞の苦しい生活の少しでも足しになればと思い、対象になる人に申請を呼びかけるため走り回りました。在日同胞のほとんどは学校へ行けませんでしたから、字を知らない人が多いし、それを見逃したらもらえないとわかっていましたから。 今、原告になったことについては、私も子どもも孫も皆、税金払っていながら、なぜ年金もらえへんのやと、そこから出ました。裁判おこしてみながもらえるもんやったらと思いました。在日が年金もらえないのは、不公平や、使えるときはこき使って出すときに出さないのは卑怯やと思っています。植民地時代、戦争中は朝鮮人をみんな日本人としてこき使って、重労働、低賃金で使いたおしてあげくのはてに戦争が終わったら利になることはみなカットされて、そしていまだに年金ももらえずに苦しんでいます。私たち旧植民地出身の被害者が、日本で死ぬまで「悪い」レッテルを張られることなく、人間として当たり前の権利を保障されますよう、よろしくお願いします。 人並みの老後を 鄭福芝さん 私は、3人兄弟の一番下でした。父は私が2歳になる前に亡くなりました。 私が子どものころ、地元の女の子で学校に行かせてもらっている子はほとんどいませんでしたが、私は小学校6年くらいの年齢まで学校に行っていました。学校に行くことはお金のかかることなのですが、私のオモニは、私が結婚するときに、タンスにチョゴリを入れてやれなくても、自分の名前が読み書きできるようにしてやりたい、と言っていました。学校では、週2回朝鮮語の授業があるほかは、全部日本語でした。 学校を卒業すると、綿作の仕事をしました。日給は29銭か30銭でした。当時、朝鮮では50種類もの税金を取られ、家にもよく税金取りがやって来ていました。 19歳のある日、新聞を見たら、「女工求む、日給70銭」という広告がありました。1食10銭あれば食べられるから、あとの40銭で勉強ができるのではないかと思い、私の胸は躍りました。オモニに相談すると、「みんなに内緒でオモニが行かせてやろう」と言ってくれました。 しかし、日本に来てみると、日給70銭などという話はどこにもありませんでした。私は路頭に迷ってしまったのですが、15日ほど遅れて姉が朝鮮から大阪に来たので、私は姉をたよって大阪に行きました。 オモニが103円を持って日本に来て、京都に二畳間を借りてミシンを買いました。当時の103円といえば大金ですが、父がやっていた田んぼを始末して作ったお金だそうです。私も京都に移り住み、ミシンの内職を始めました。 21歳のとき、今でいう歯科技工士のような仕事をしていた夫と出会い、結婚しました。夫も朝鮮出身です。夫の腕は良く、夫の勤務していた東山の歯医者は繁盛していたようです。私が22歳の5月に、私たち夫婦は現在私が住んでいる二条駅そばに引っ越しました。 終戦直後はいわゆる闇米を売っていました。二条駅に行くと田舎からコメがくるから、一般の家へ売ったのです。また、私の家近辺には同業者が多かったので、大阪の京橋にも行ってコメを売りました。 大阪に行くようになって、大阪にはいろいろ売れる物があることがわかり、私は、船場や東大阪の問屋でシャツやパンツを仕入れてきて、京都の職業安定所のたまり場に行って売りました。 朝鮮人はまともに働きに出ても日本人に比べて全然低い給料しかもらえませんので、このように私は行商に出るようになったのです。それでも日本人よりは圧倒的に収入は少なかったです。頼母子講(タノモシ)での借金も多く、私はいろいろな仕事をしました。家にはチシャやカボチャも植えました。あまりにたくさんの仕事をしたからだと思いますが、手がすごくゴワゴワしてきました。姉が私の手を見ていつも泣いていました。生活保護は、自分の気持ちが許さず、ずっと受けていませんでした。 1961年、夫が男の2人の子どもを連れて、朝鮮に帰りました。私も一緒に帰りたかったのですが、当時、日本に借金を残している者は帰ってはならないとされており、一緒に帰ることはできず、私は夫の1年後に帰るつもりでいました。 私の仕事は行商でしたので、車があると仕事の能率が上がると思いました。そこで、1964年、私が46歳のとき、車の運転免許を取りました。 仕事をしながら、郁文夜間中学校に2年行きました。そこから定時制高校に4年行きました。 私が55歳ごろのことだと思いますので1973年前後のことです。円町の日雇の人が集まるところに行商に行ったら、なにやらみんな「かける、かける」と言っていました。何のことかと聞いてみますと、年金をもらうための掛け金を支払う日のようだったようです。私も年金に入りたいと思いましたので、「私も掛けたい」と窓口に行ってみました。すると、担当の方に「あんたはあかん」と言われたのです。私に日本国籍がないからでした。 私は、自分はちゃんと年金をもらうまでがんばろうと思い、独居でも生活保護を受けずに、行商の仕事や畑仕事を、2004年の秋、85歳で体調をくずすまで、ずっと続けて来ました。車の運転もそのころまでやっていました。 この日本の社会に共に生き、そして今の豊かな日本の国を共に建設して来た自負はあります。まじめに生きてきました。人の何倍も働きました。それなのに、どうして私たち韓国、朝鮮籍の人は、生まれた場所が違うからといって、国から差別を受けなければならないのでしょうか。 私はこの思いをどこにぶつけることもできずにいました。ある日、1995年くらいのことだと思いますが、用事で区役所に行ったときに、京都市長さんに無料で手紙が出せる封筒が置いてあるのを見つけました。私は、これはいい、これを使って市長さんにお話を聞いてもらおうと思いました。そして、人並みに年金に入らせてほしい、もしそれができないのであれば、仕事が欲しいと訴えました。郵便代がかからないので、何度も訴えました。市長さんからは合計7通のお返事がありました。現在6通残っています。年金についても、仕事についても、良いお返事はもらえませんでした。 85歳まで年金も生活保護ももらわずに独り暮らしでがんばってきた私ですが、2年半前に倒れてからは、生活保護のお世話になってしまいました。車は乗れなくなったので、軒先で物置になっています。 現在の私は、年額36万円の日本生命の民間年金と、月額6万円の生活保護で生きています。日本生命の年金は、4月22日に一度にくれるのですが、住んでいる家の固定資産税などを支払ったら15万円しか残りません。月に7万円ほどで生活していることになります。 このように、日本の市民は差別をしないのに、日本の政府が私たち韓国、朝鮮人を差別して、年金に加入させないのはどういうことでしょうか。 豊かな老後とまでは言いませんが、これまでこんなに一生懸命に働き続けてきたのですから、独居老人として、人並みの楽な老後を送りたいのです。 [朝鮮新報 2006.5.30] |