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枝川と東京第2を語った在日1世たち 市民ら民族教育に理解深める

 東京朝鮮第2初級学校で4日に行われた市民集会「枝川−過去、現在、未来」では、枝川に移住させられた在日朝鮮人が民族教育を開始し学校を守ってきた歴史を知る4人の同胞一世らが、枝川と学校に関わってきたそれぞれの立場から報告した。

 強制連行と朝鮮半島出身者の遺骨問題について語った金鐘浮ウんは、昨年12月に東京都慰霊堂(墨田区)で同胞のものと思われる遺骨がみつかったこと、八丈島の軍関連施設に多くの朝鮮人が強制連行されたことなどを語った。金さんは「さまざまな形態で日本に連れてこられた同胞たちの子孫がここの生徒たちだ」として、そのような生徒たちに対する差別や弾圧は断じて許されないと指摘した。

 1944年から枝川に住んだ枝川住宅管理委員会初代責任者の朴在魯さんは、枝川の住宅と民族教育が行われた隣保館の管理を引き継いだ経緯について解説し、東京都の提訴の不当性について訴えた。朴さんによると、都は45年末、住宅や隣保館の管理を放棄してあらゆる資料を引き継いでいった。学校の建設や運動場の整備などについても認めていた。また、45年3月10日の東京大空襲時に、枝川の同胞らが団結して住宅を守った逸話や、家を焼かれた日本人に食事や寝床を提供したことが感謝され、新聞で報じられた美談も披露した。

同化政策で教育制限

枝川の歴史を語った1世たち

 53年から57年まで同校で教壇に立った鄭昌燮さんは、「都立朝鮮人学校」時代の学校の様子を語った。「都立」時代は日本人教員が6、7人いたが、ほとんどが協力的で時には同胞の家で一緒にお酒も飲むなど、雰囲気はとてもよかったという。だが一方、日本政府や都の同化教育方針による制限を受けていた。朝鮮人教員は担任からはずされ民族科目を「課外科目」として教えることだけを許された。学校での朝鮮語使用は全面禁止され、ホームルームなどもすべて監視され、都に逐一報告されていたという。

 呂運珏さんは、民族教育を守るたたかいを描いた記録映画「朝鮮の子」(1955年、監督=荒井英郎、京極高英)の撮影秘話を披露した。在日朝鮮人と民族教育に対する弾圧が激しいなかでも撮影に励んだ朝・日の映画人を思い出すと「自分もまだまだがんばらなくては」と思うという。撮影のほとんどは東京第2初級で行われた。撮影後に同胞の家で食べたホルモンを日本人のスタッフたちが気に入って、よく一緒に食べにいったのが印象深いと語った。

同胞だけでなく日本人の問題

 集会では、東京都との間で係争中の「枝川裁判」の状況と今後の見通しについて、学校側弁護団が発言。師岡康子弁護士は、無償で土地を提供していた都が「学校が存続するかぎり善処する」と約束した事実などを挙げながら、「都の主張は破綻しており、学校側の主張が通らないわけがない」と指摘した。金舜植弁護士は、「この裁判では過去の清算の問題だけでなく、日本にある外国人学校の地位が問われている」と指摘した。

 民族教育の歴史について解説した朝鮮大学校政治経済学部教員の金哲秀さんは、「在日朝鮮人は日本の植民地支配と民族抹殺政策の被害者。民族教育の権利を獲得することは、被害者の尊厳を回復するための在日同胞たちのたたかいであると同時に、日本社会の問題でもある」と指摘、問題意識を芽生えさせることが今後の課題だと述べた。

 主催した枝川裁判支援連絡会は、6月開催予定の「朝鮮学校を応援する集い」までに、裁判の説明会などを各地で行う。目標は100カ所だという。(泰)

[朝鮮新報 2006.3.15]