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「歴史認識」の不在

 朝鮮の核実験が世間を騒がせている(「世間が騒いでいる」が正しい表現か)。この間、さまざまな会合に参加し、在日朝鮮人の人権擁護を訴える要請活動にも同行した。

 メディアの報道に接しながら、日本には自己を歴史的に省察する認識の枠組みが決定的に欠如しているのでは、と感じることがある。

 ミサイル発射、核実験以降、在日コリアン、とくに幼い生徒、児童の置かれた状況は深刻さを増している。身辺安全のために外で母国語を使わない、日本名でお互いを呼び合うこともあるという痛ましい現実。無邪気に笑い話しながらも、時おり怯えたような表情を見せる生徒たちの姿に、いたたまれない気持ちになる。

 殺伐とした状況の中でも、在日コリアンの声に耳を傾け、人権擁護のために力を尽くす人々がいることは救いだが、残念ながらその声は小さい。

 先日行われたあるシンポジウムで、神奈川大の尹健次教授が「日本にとって朝鮮は自らを省みる鏡だ」と示唆に富む発言をしていた。

 歴史認識が他者を通じて自己を認識する営みだとするならば、日本には真の意味での「歴史認識」がない。なぜか。「鏡」を壊したからだ。

 朝鮮を蔑み、弾圧することによって自らを映す鏡を壊してしまい、自分の位置を見つけられなくなってしまっている。

 これは、われわれのみならず、日本人自身にとっても不幸で悲しむべきことではないだろうか。(相)

[朝鮮新報 2006.11.14]