〈解放5年、同胞会館事情−中〉 朝聯事務所の変遷−「中央総本部会館」− |
「歴史に類例ない大暴圧」
朝聯は1948年8月、東京駅八重洲口の東京都中央区槙町1−3に新事務所を構えた。東京駅前の「東京クラブ」の正式買収契約は1948年4月8日に行われた(解放新聞4月15日)と言う。 朝聯第5回全体大会提出活動報告書(1948年10月)と朝聯会館建設委員会が1949年5月にまとめた「朝聯中央会館建設事業活動報告要項」を参考に購入(所有権移転)と立ち退き、営繕などを概略する。 月島の事務所(大蔵省所管)の借用期間は1947年12月満了であったが期限の延期手続きが認められ、朝聯は、1948年1月8日に木戸ビルの買収に取りかかり所有者復興助成会社の代理人との仮契約を結んだ。その後の前記契約を解消して4月8日に所有者復興助成会社と直接仮契約を締結した。ところが重要都心地帯に朝聯などの拠点を置くことに対して妨害工作が起き、所有者側から契約解消などの通告が出る始末であった。朝聯建設委員会は契約義務履行を強く主張した。その後の1948年7月、舎屋及土地買収当時、朝聯では法人手続きができない関係で所有権を暫定的に美国汽船株式会社名義に移転登記をする一方で、それに併行して総本部尹槿氏名義で仮登記を完了、そして財団法人手続きを推進した。しかしそれが引延ばされた。所有権の安全のために暫定的な処置として、1949年2月1日、中央産業株式会社の名義で不動産移転登記を完了した。
また、東京観光株式会社(東京クラブ)と3階の3坪を使用していた某株式会社の立ち退きのために裁判などをおこした。 上記報告書には営繕、収支などについても詳細に記録されてある。支出の内訳を見ると会館及土地購入に903万円、立退費に526万9300円、営繕費に108万2695円40銭をかけている。また外装工事、内部補修、増築なども予定した。会館建設費は、朝聯のすべての地方本部に割り当て、組織的に同胞の力で新会館を設けたといえる。 八重洲口前にあった朝聯会館は1949年9月8日、朝鮮民主主義人民共和国創建1周年記念日の前日に、「団体等規正令」(団規令)により、日本当局に没収された。当時の会館所在地表記は、1956年9月1日から八重洲4丁目となり、1965年4月1日より八重洲2丁目2番地1号となった。不当に弾圧されなければ東京駅前の一等地に同胞組織の大きな会館事務所が今日もあったはずであろう。 朝聯の財産没収 具体的には植田法務総裁が法務府告示第51号により、朝聯と民青を「団体等規正令」による解散団体に指定して団体の解散と28人の朝聯と民青の幹部の公職追放、その団体の所有財産いっさいの没収を指令した。 没収された朝聯の財産は、返却されることはなかった。法務庁民事局の集計からその一部を見る。@建物は78棟、241万2422坪、評価額449万3400円、A土地は2万6815坪、評価額53万6300円、B現金は16万8765円61銭、C預金は207万6225円50銭、D勧銀福券は1万円、E有価証券1733円、ほかに戦時郵便切手、債権そして金庫、家具類、オート三輪、自転車などの備品数万点を没収した(坪井豊吉著「在日朝鮮人運動の概況」)。 「歴史に類例がない大暴圧」(解放新聞1949年9月11日付)である朝聯と民青の解散命令に対し、全国の朝聨組織は憤激しながらも冷静に対処し、不当弾圧反対闘争に立ち上がった。朝聯は、日本政府の不当性を全世界に呼びかけ、日米当局にたいする抗議と陳情を繰り返した。金天海、尹槿、韓徳銖ら幹部たちは翌日の9日には、総司令部法務局、参謀部、対日理事会に陳情、また行政訴訟の準備に取りくんだ。同胞の各団体はもちろん日本の政党、民主団体、労働組合なども果敢な活動を展開した。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2006.10.20] |