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〈解放5年、同胞映画事情−上〉 朝聯、映画課の設置−数々の記録映画−

 解放直後の文化活動の中で映画活動も盛んであった。その間の映画活動について朝聯の各種会議録、「在日朝鮮文化年鑑1949年版」(以下文化年鑑)、「境界からの視線」山形国際ドキュメンタリー映画祭2005での特集カタログなどを参考に探ってみる。

 文化年鑑では、解放後の文化活動で「文学に次いで旺盛であったのが映画運動であった。…40年間に150編しか作れなかった朝鮮映画がただの3年間で『ニュース』20編と記録映画10編を外地である日本で製作上映したことは特書大筆」できると評価した。

活動の始まり

民衆映画社のスタッフ(写真集「解放」民衆新聞社刊、1946年9月発行)

 朝聯は他の諸活動と共に映画活動も重視した。たとえば46年6月の朝聯第2回文化部長会議では、議案「映画地方巡回隊に関する件」(映画会社設立趣旨及技術者養成)を設定して議案に対する提案と質疑応答を行っている。

 朝聯が映画活動を重視した理由は文献などから2つの点であった。1点は、映画自体が持つアピール性、扇動性と同胞の中で文盲が少なくなかったことに起因する。「わが同胞の急速な啓蒙と朝鮮人聯盟の趣旨徹底を図謀するために」(上記文化部長会議の提案)、「啓蒙運動で第1に必要なものは映画である」(朝聯文化部長)との認識をもっていた。また、中央委員会の論議の中である委員は、自身の居住地域同胞の6割が文盲である実態を挙げて、視覚をとおした啓蒙活動の切実さを訴えている。

 2点目は、祖国の映画状況である。46年年頭に日本に来たある同胞は、映画の機材がない実態を訴えて、日本で調達して本国にもっていくべきだと主張したという。これは北南朝鮮ともに同じ状況であった。新朝鮮建設に寄与することを綱領に掲げた朝聯としても朝鮮映画のために寄与する必要があった。

 朝聯は、結成された翌月の45年11月に映画活動を進めるために、文化部のなかに映画課を設置した。同年12月には、移動映写機2台を購入、映画技術者1人、助手1人を配置、5月までに約245カ所の地方巡行を完了した。材料は「朝聯ニュース」1、2、3報と「日本ニュース」「新世界ニュース」などであった。「朝聯ニュース」の1、2報は、(株)日本映画社、朝日映画などの一部と新たに撮影したリールを編集した。李莞、李芳寧などが中心につくったという。

民衆映画社の活動

民衆映画社設立を決めた朝聯第2回文化部長会議録

 映画活動を展開する朝聯の前には、いろいろな困難が立ちはだかった。映画制作活動は、要する機械その他機材購入及びその運営にばく大な資金が必要であるばかりか、実地事業運営において文化部門のうちの一部門に担当させるにはあまりにも無理があった。そのような事情で朝聯は、「財政的土台を確立すると共に別個の運営体として民衆映画株式会社を設立」(朝聯第3回大会文化部活動報告46年10月1日)したのである。朝聯文化部では購入した機材いっさいを朝聯の投資で全部会社に移転させ、部員も移籍させ7月から完全に新会社として発足させた。

 民衆映画株式会社(民映)設立の目的は、わが民族文化の一環として民族映画の建設と本国よりも比較的資材入手が可能な日本で朝鮮の映画建設に寄与するところにあった(文化年鑑)。

 民映で活動した人々は、資料によって若干異なるが大体次のようだ。制作、運営には、李相堯、南浩栄、金順明など、技術(演出、脚本、撮影、録音)には、金道漢、許南麒、金鳳雨、申光雨、鄭博などがいた。機材、技術の協力を受けるためなど「日本映画社」と芸術映画社から出向して来た人まで含むと民映には一時30人を超える人が従事したという。

 民映は資本金500万円を集める予定であったが、その半分も集めることができなかったなどの事由で47年9月には活動を辞めることになった。その間、47年3月まで毎月1編のペースで「朝聯ニュース」を12報を制作し、また「解放後の朝鮮」(日本語版)、「兵庫県の同胞たち」などの記録映画も制作上映した。当時朝鮮映画協会、朝鮮国際映画株式会社などもあったが特色ある作品を残せなかったという。民映は、46年9月には構成許南麒で「敗戦日本一年史」(仮題)を完成させるまでになったという(解放新聞49.9.10、公開は未確認)。

 「朝聯ニュース」の制作上映など朝聯時代の映画活動は、在日朝鮮人映画運動の出発を意味し、文化活動の輝かしい1ページを占めることは確かである。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2006.7.31]