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〈解放5年、同胞雑誌事情−C〉 民主朝鮮 最もながく続いた雑誌

 今回は、解放後最も長く続いた雑誌「民主朝鮮」と児童雑誌について見る。

 雑誌「民主朝鮮」については、「復刻『民主朝鮮』GHQ時代の在日朝鮮人誌」(明石書店、1993年5月)が出ている。そこには「民主朝鮮」と本誌別巻があり、詳細に解説されている。本稿でもそれと在日朝鮮人歴史研究所に所収されているものを参考にする。

「民主朝鮮」創刊号

 「民主朝鮮」第1巻第1号(創刊号)の発行日は46年4月1日、発行人は趙進男、編集人金元基、発行所は民主朝鮮社、横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷町1−42、定価は2円となっている。

 「民主朝鮮」創刊の意図については「創刊の辞」に明確に記されてある。「我等は、我等の進むべき道を世界に表明すると同時に、過去36年という永い時間を以って歪められた朝鮮の歴史、文化、伝統等に対する日本人の認識を正し、これより展開されようとする政治、経済、社会の建設に対するわれらの構想をこの小冊子によって、朝鮮人を理解せんとする江湖の諸賢にその資料として提供しようとするものである」。つまり、在日朝鮮人を含めた朝鮮と朝鮮人に対する過去と現在、展望を知らしめるために同誌を編集発行したという。編集後記によれば、雑誌の発行が計画されたのが東京大空襲(1945.3.10)よりもはるか前というから驚く。その空襲で2000枚以上の原稿が灰になったという。朝鮮解放が事前に知らされたわけではないのに、祖国解放への揺るぎない信念と民族再生への強い気迫と志に圧倒される。

 創刊号には、元容徳「信託統治と民族統一戦線」、林薫「在日本朝鮮人聯盟について」、金台俊「朝鮮小説史第1回」、李殷直訳「朝鮮小説史第1回」などが載っている。

解放直後4年間の在日同胞の文化活動をまとめた「文化年鑑」

 雑誌「民主朝鮮」は創刊号から50年7月号まで全33号(21号は発禁)刊行し、総ページ数は2667ページに及ぶ。発行所は民主朝鮮社、朝鮮文化社、文化朝鮮社、民主朝鮮社などと変わった。発行人は創刊号から3号までが趙進男、46年7月号の4号からは韓徳銖、49年1、2月号から尹柄玉であった。編集人は、2号から金達寿、49年1、2月号から尹柄玉が担当した(上記「民主朝鮮」本誌別巻参照)。「民主朝鮮」の担当者は朝聨神奈川県本部の役員が多かった。49年2月から編集兼発行人になった尹柄玉は朝聨東京都本部委員長であった。発行所の所在地も初期は保土ヶ谷、横須賀市大津を経て47年2月号から48年8月号まで横須賀市大瀧町85番地、48年9月号から東京都中央区槙町1−3、朝聨解散後の50年5月号(1950年4月1日発行)は東京都港区芝新橋1−4−1。槙町の住所は朝聨中央総本部所在地と同じである。

 同誌は、在日同胞と各界日本国民に朝鮮の現状、在日朝鮮人運動の実情を正しく知らせ、朝聨活動と在日朝鮮人に対する支持者、理解者を獲得するうえで一定の貢献をしたといえよう。解放直後の同胞の生活、思考経路などを含めた実情、在日朝鮮人の教育問題、祖国統一民主主義戦線のこと、朝聨の強制解散など当時の在日朝鮮人運動を回顧、研究するうえで貴重な文献となると思う。

少年用、保護者用刊行物

 「オリニ(こども)通信」も好評を博した月刊誌であったという。発刊を決めたのは、朝聯第2回全国文化部長会議(46年6月1日)。創刊号は46年7月1日に発行(月2回)、解放されたオリニたちに初めて贈る雑誌というふれ込みであった(民衆新聞46年6月25日)。創刊号には李珍珪「われらの学芸会」、林光徹「むかしの人」などが載っている。「オリニ通信」は、初等教材出版を機に各地方に散在した学院間の動態と連絡、子供たちの作品の交換、家庭の学父母(保護者)たちの啓蒙などのために発行した(朝聨第3回定期大会報告)。一度に2万部を刷ったという。

 「ウリトンム(私たちの友達)」は上級用(4、5、6年)と下級用(1、2、3年)を発行。これは「ウリトンム社」(東京都千代田区神保町2−20、後の学友書房)の発行。

 今まで4回にわたって、解放5年間の雑誌編を記したが、すべての雑誌が手元にない状況で小文をまとめるに至ったのは、今後の課題と読者に協力を承りたいためである。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長、おわり)

[朝鮮新報 2006.6.24]