〈解放5年、同胞雑誌事情−B〉 当時の実情見える広告 |
今回は、解放後「文芸」と名をつけた同胞雑誌3誌を見る。
「高麗文藝」の第3号(謄写版、28ページ)が歴史研究所にある。高麗文藝社発行で、1946年1月1日発行となっている。編集兼発行人は許宗軫、発行所は東京都芝区金杉浜町1番地、毎月2回、1日、15日発行である。第3号新年号となっているので創刊号は45年12月1日に発行されたと思われる。朝鮮語版なので45年12月に発行されたとするならば、解放後の朝鮮語版定期刊行物の先駆といえる。しかし、その原稿は植民地時代の雑誌「朝光」のものをそのまま移したものという(文化年鑑)。 3号には、巻頭言、新年を迎えて、風流人間の文学、歴史雑記白衣点景、詩歌、時事ニュースなどが載っている。巻頭言で「我々が最も愛するわれらの国土は…現在までも南北に2分され2大国家の軍政下にあるという現実を直視するとき…自由と自主な完全独立国家を形成しなくてはならないことが今国民各個の最大の緊急な義務」(新年を迎えて)と煽動的に訴えているが、その内容は時代的制約だろうと思うがあいまいである。 ところで同誌に掲載されている広告が興味深い。朝鮮建国促進青年同盟、朝鮮科学技術協会、在日本朝鮮人聯盟神奈川県横浜中央支部、在日本朝鮮人商工会―在日本朝鮮工業会、朝鮮経済聯盟合同、朝聯芝、赤坂、麻布連合分会の広告が1ページずつ載っている。建国促進同盟は後の民団の中心勢力になっているが、それと朝聯の支部や分会が同時に賛助広告を出している。建国促進同盟と朝聯は、全てではないが各地で対立、衝突していた。広告は、今日で言う民族的和合ということよりも、政治的信条などが明確になっていない当時の状況を反映したものといえる。また、商工会連合本部が結成(1946年2月)される前の同胞経済団体が合同で広告を出しているのも当時の実情を理解するうえで参考になる。同誌は、5号で廃刊となる。 「朝鮮文藝」
47年10月1日、朝鮮文藝社から日本語版「朝鮮文藝」創刊号が発行された。編集兼発行人は朴三文、発行所は東京都文京区大塚坂下町となっている。定価は20円。40ページの活版印刷である。 「朝鮮文藝」は、「在日同胞が60万人も居ながら文藝雑誌の一つも持たぬことは寂しいこと、解放となるやまもなく朝鮮文学会が創立され、盛んに文藝活動が行われ、小誌も微力ながらこれらの文学運動の一助」となろうと創刊(編集後記)したという。 創刊号には、李石柱「朝鮮民族文学の展開」、金達寿「混迷の中から」、許南麒「雑草原」、李殷直「去来」などが載っている。日本人の文芸評論家である青野季吉は「朝鮮作家と日本語の問題」を寄せ、「朝鮮作家(日本語で書く)にとって、日本語とはいったい何であろうか」として、日本人が日本語の可能性を追ってそれができないときには死滅である、朝鮮作家の場合は日本語からの解放を意味するようなことも考えられる、彼(朝鮮人)の文学的生命の可能があたらしく実現されるということも考えられる、などと問題提起を日本人側の立場でしている。こんにちもあると思うが、祖国解放後、文学作品における用語問題は作家、文学者たちの重要な論議の一つであった。 これは朝鮮語版の「朝鮮文芸」である。48年3月号が創刊号になっている。編集兼発行人は朴三文、発行も住所も上記「朝鮮文藝」と同じである。16ページの謄写版である。 創刊号には、姜瞬「詩・洞簫」、金元基「小説不孝」などが載っている。同誌の発行は何よりも朝鮮語での文芸雑誌を発行したことにあろう。創刊号の作品は、解放直後の一般同胞と文学者の状況の一端を理解するうえで参考になる。「朝鮮文芸」は2巻4号まで発行された(文化年鑑)。 長くは続かなかったが、同胞文芸誌の編集、発行に注目し、それに力を注いだ当時の編集者、作家たちの意気込みは高かったといえよう。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2006.6.17] |