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〈解放5年、同胞雑誌事情−A〉 バラエティに富んだ文学、青年誌

「朝鮮詩」

「朝鮮詩」創刊号(祖国文学社発行)

 1946年の年明けに詩専門誌として「朝鮮詩」が発行されている。創刊号の第1巻第1号は1月15日付発行で、発行元は祖国文学社、発行兼編集は吉元成、住所は東京都渋谷区永住町13となっている。朝鮮語版で臨時売価4円、40ページの謄写印刷である。

 「創刊に際して」では、「われわれは真実の美として、その偉大な文化国家建設へ、目標を達成するとともに民族の永遠な快楽へ、目的を達成するために、美学の母体、文学の母体、詩文学、朝鮮を建設しようとする。このような目的と使命を胸に秘め朝鮮詩が世間に現れることになった」と発刊の意図を述べている。

 1号の内容は、詩論詩想、詩、随想、創作、小説、散文詩などバラエティに富んでいる。後に人民俳優になった金剛山歌劇団歌手として活躍した陳礼壎の「朝鮮人と芸術」や編者吉元成の「マルクス主義芸術論」の小論も載っている。尹仁哲の詩「朝鮮聯盟」などは朝聯の結成と活動に関して高らかに称賛している。表紙の裏の詩「人民哲学」にも「子羊は牧子を従い 人民は指導者に従う 指導者は祖国を偉大にし 祖国は人民を愛護する 知っているか?? 在日本朝鮮人聯盟は我々のために!! 夜も昼もたたかっている」と謳っている。

 創刊号には次号の予告まで載っていたが、2号は発行できなかったようだ。

「朝聯青年」

 青年向けの雑誌もあった。「朝聯青年」2号が手元にある。創刊日は不明。在日本朝鮮人聯盟中央総本部青年部が46年10月10日に発行している。編集人は尹槿、発行所の住所は東京都芝区田村町1−3である。朝鮮語、活版印刷である。

 「朝聯青年」の編集発行の趣旨は、「トンムたちの意志を発表する機関であり、また我々の同志的友情を結ぶ連絡であり社交場」(2号の編集後記)にすることにあったようだ。

 2号に限ってみると、筆者も内容も朝聯総本部の出版物としての体裁を整えているといえる。筆者とテーマ名をいくつか挙げる。金秉稷「現段階における青年の進路」、河宗煥「朝鮮青年の長点と短点」、金恩順「反封建的家族制度と婦女の使命」、許準「朝鮮に対する侵略者の歴史」、林光徹「史話懲録の話」、許南麒「詩〜目」などそうそうたるメンバーであり、興味を引く内容であった。

「青年会議」

「青年会議」 9月号

 朝聯青年部から朝聯の傘下団体として結成された在日本朝鮮民主青年同盟(民青)は、中央機関誌として「青年会議」を発行した。創刊号の9月号は1948年9月20日発行、編集兼発行人は崔旴均、日本語版(60ページ)であった。

 同誌は、「吾々は先ず知りたい。そして考えるべきである。それは具体的な生活の中に求められ成長するであろう。その役目をこの『青年会議』が果たしたいと思う。悠久な朝鮮の楽浪の古より続いた文化を承けついで発展させる要素はあなたたち民青の盟員なのだ」(巻頭言)と編集発行の趣旨を述べている。

 9月号は、平野義太郎「戦争と平和」、南廷揚「朝鮮人の生活のありかた」、金碩勲「民主朝鮮建設について」などの論説、ルポルタージュ川崎朝鮮初等学校、あるいは北陸地方震災救援行(福井大地震=48年6月28日)、許南麒の詩など多彩な内容で構成された。同誌は、48年後半ということもあって運動の方向性も「名実共に統一的『朝鮮民主主義人民共和国』の確立に向かって、全人民は決定的闘争へ突入」「在日同胞の闘争任務も、ここで更に明確になり、万人の力量を」(上記南論説)集中的につぎ込むことが要請されると強調している。

 「青年会議」第2号(48年12月15日付発行、65ページ)にも、南廷揚「当面の情勢と民青の任務」、無記名「李承晩を裸にする」などの論説と、青年誌らしく「特集新しい恋愛と結婚について」を組み、韓徳銖議長の「青年時代の私」という体験談を載せている。

 民青は、朝聯の強制解散時に同じく解散(49年9月8日)させられるが、「青年会議」が、何号で廃刊になったかは確認できていない。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長)

[朝鮮新報 2006.6.14]