〈解放5年、同胞雑誌事情−@〉 創刊号以来、継続されなかった悲哀 |
1945年の解放から5年の間、在日朝鮮人は、さまざまな定期刊行物を発行した。朝聨の定期大会報告、文化部長会議などの会議録そして「在日朝鮮文化年鑑1949年版」(=魚塘、許南麒、朴三文編、朝鮮文藝社発行49年4月1日。以下文化年鑑と略す)、朝鮮大学校新聞研究会編集の「在日朝鮮人新聞雑誌便覧(初稿)」(75年12月)、雑誌「祖国」掲載の金信洪論文などを参考にして、新聞を除いた主な定期刊行物の発行状況について4回にわたってみる。当時の雑誌すべてが手元にあるわけではないので制約性はぬぐえない。手元にあるものを散見してみると、当時の編集者、発行者の大変な意気込みと3重4重の苦労を乗り越えて雑誌を出版したこと、創刊号、2号ぐらいは出てもほとんど継続されなかった悲哀などが伝わってくるようだ。 解放直後に創刊された総合文化雑誌は「人民文化」であり、中心人物は、李珍珪、林鳳俊、呉守麟、許南麒であった。発行は人民文化社(東京都淀橋区)、7号(46年5月)まで発行されたという。廃刊後彼らは「朝鮮民衆新聞」に入社して、紙上に作品を掲載することで「人民文化」発行の趣旨をある程度生かすことができたという(文化年鑑)。ほとんどの資料にこのように記されているが、それ以上展開されたものはない。本稿を含めてほとんどが孫引きではないか。現在、同誌を探している。 最初の総合文化誌
「朝聨文化」は、朝聨中央総本部文化部が発行した朝聨の機関誌である。「朝聨文化」創刊号の発行日は46年4月1日。発行人尹槿、編集人李相堯であり、朝鮮語、60ページ、謄写版である。5000部発行したという。 創刊号には、創刊辞(金正洪朝聨副委員長)、巻頭言、特別寄稿(山川均)、論説(金四哲など)、詩(許南麒など)、芸術論(李殷直など)、報告、随想など多様な構成である。巻頭言で李相堯は「在留同胞文化人兄弟姉妹よ! われわれに唯一な武器はペンである。祖国建設はすなわち文化建設を意味する」として同胞文化人に民主主義朝鮮建設の道、世界民主主義戦線に貢献する道にこの月刊誌が「微弱でも誠意ある贈物」となることを渇望していると記している。 創刊号掲載文の中で筆者は、とくに朴興圭「強制労働者」、林光徹「芸術と人民大衆」は、今日でも読み応えがある論考だと思う。朴の論稿では「集団輸入労務者」と「徴用」で引っ張られてきた在日朝鮮人の実態を解明し、日本当局の不当な対応を指摘した。 朝聨文化部で月刊誌を計画したのは準備委員時代から林光徹だという。つまり構想から実現まで6カ月かかったことになる。創刊するまで時間を要したのは、@原稿を書く人が少ないA印刷の問題B技術の問題(編集後記)であったが、最も大きな原因は原稿難であったという。
「朝聨文化」第2集(2号)は、46年10月20日の発行で、編集者は朝聨中央総本部文化部となっている。2号も謄写版であるが「やっと雑誌らしい形態と内容を整えた」(編集を終えて)と記しているように創刊号よりは体裁がよくなっており、ページ数も111ページと増えている。2号では、1号のように論説、詩などとともに教育資料、本国文化資料などを具体的に載せ、新朝鮮建設に寄与する朝聨の方針を後押しするような内容で構成された。 雑誌「朝聨文化」そのものからはGHQの検閲内容はわからないが、日本国会図書館から入手した同じ「朝聨文化」には朝聨の機関誌ということで徹底的な検閲を受けた痕跡が生々しく残っている。本誌は2号で廃刊になった。 46年10月の朝聨第3回大会に提出された「文化部活動報告書」の出版活動では、A教材編纂委員会構成と教材出版、B朝鮮情勢資料集、C朝聨資料集、D外国資料集、E啓蒙文庫、F朝鮮語辞典と漢鮮日華新字典、G朝聨文化とこども通信−となっている。当時朝聨の出版活動は広範囲に及び、それに対する意欲と目標は多大であった。 朝聨が結成されて1周年、現状打開のための諸活動と同胞教育のための教科書、教材編さんに人材も資金も取られ「朝聯文化」に手を回せなかったと考えられよう。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長) [朝鮮新報 2006.6.10] |