〈雨と笑い−23回目の高麗野遊会〉 豊かな古代の交流史 現代に甦らせて |
ふるさとのよう、いつまでも平和な里に
埼玉県日高市の高麗郷にある高麗神社を訪ねる高麗野遊会が13日、同実行委員会の主催で行われた。あいにくの雨のなか、在日同胞や地域で日朝友好運動に取り組んでいる市民や歴史愛好家、南の留学生ら120人余りが参加した。 今から10年後の2016年には、高麗郡建郡1300年という大祭を迎える高麗神社。日高市市政要覧には「高句麗の王族の血を引く若光はその卓抜した指導力を発揮し、祖国(高句麗)の高度な技術力で次々と荒野を開拓し、産業を興していきました。若光は民衆にも慕われ、大きな足跡を残しながら、波乱の生涯を終えました」と顕彰されている。その若光王を祭ってきたのが同神社であり、現在その血脈は59代宮司・澄雄氏、次代の禰宜・文康氏と受け継がれている。 同神社では記念イベントとして多くの人に渡来文化や郷土の歴史に親しみを持ってほしいと、「渡来人の里講演会」(6月)、「高麗神社に伝わる文化財展」「雅楽奉納演奏会」(9月) など多彩な催しを予定している。
高句麗と日本の豊かな交流史が刻まれたこの歴史の地を訪ねる旅、高麗野遊会が生まれたのは23年前。「朝鮮半島から優れた古代文化を学んだ古代日本のように、現代にもその交流の精神を生かそうと呼びかけると多くの人たちの賛同を得られた」とふり返るのは、初回から野遊会の牽引役として会を見守ってきた東京水道労働組合の古田武さん。この数年は、参加者もうなぎ登りに増え、200人を超えることもしばしば。「一度参加した人は、一年に一度、日朝友好のゆかりの地・高麗郷で再会することをお互いに楽しみにしているようだ」と破顔一笑する。 今年は雨でコースが変わり、高麗駅から直接、聖天院、高麗神社まで歩いた。
道端には可憐なマーガレットの花や真っ赤なつつじ、紫のあやめが咲き誇り、五月の新緑に映えていた。初参加の落語家の雷門助六さんも、「ふるさとに帰ったような懐かしさを感じる。友人たちに誘われて来たが、ここは景色もきれいだし、由緒ある史跡も多い。日朝は隣人同士。平和じゃないといけないね」とほほ笑んだ。 高麗神社では、禰宜の文康氏が一行を出迎えて、神社の歴史について触れながら、「1300年もの族譜を誇れるのは、日本広しといえどもわが家だけ。祖先は高句麗から来て、大和朝廷に重んじられた。この間には家が没落したり、戦に巻き込まれたりして数奇な運命をたどって、現代に至った。わが家の家訓は、『戦に与せず』と『借金するな』ということ。今後も、先祖の教えを守り、家の誇りを次代へとつなぎたい」とユーモアたっぷりに語ると大きな拍手が起きた。
つづいて、噺家・春風亭華柳さんの落語が行われると、神社の境内は笑いの渦に包まれた。 また、昨年11月、150年ぶりに川越市で江戸時代から続く朝鮮通信使行列を再現したパレード「唐人揃い」を企画した市民グループ「埼玉・コリア21」の江藤善章代表らが紹介された。同代表らは朝鮮通信使の正使、副使、従事官の衣装に身を包み、会場を練り歩いた。 江藤さんはあいさつに立ち、「江戸時代に朝鮮通信使が来日したのは、秀吉の朝鮮侵略を詫び、新たに朝鮮王朝と善隣関係を結ぶよう、家康が念じたからだった」として、その間12回にわたる同使節の往来は、近代日本に計りしれない影響を及ぼし、社会生活全般で朝鮮の大きな文化的恩恵を受けたと指摘した。さらに同氏は「家康が当時、日朝関係のゆがみを正して、両国の国交正常化を最優先させた精神を現代によみがえらせて、平和な日朝関係を今こそ築かねば」と訴えた。 この日は、高麗川の出世橋に大きなテントをかけて、その下の河原で参加者たちは恒例の焼肉に舌鼓を打った。ここでも、三多摩日朝女性の集いの都丸泰江さんが、朝鮮の子どもたちへの支援金が昨年、3年連続で100万円を超え、今年は南のオリニオッケドンムの活動を通じて支援ができた、と報告すると大きな拍手が起きた。河原では午後遅くまで七輪を囲み、いつまでも談笑する人の輪が広がっていた。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.5.18] |