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〈夢・挑戦−在日スポーツ人〉 在日本朝鮮人バスケットボール協会会長 康勲さん

 「バスケットボールの虫になれ」−在日本朝鮮人バスケットボール協会会長の康勲さん(58)は大阪朝鮮高級学校教員時代、教え子たちに何度もこう言って聞かせ、現役を退いたあともバスケの普及、指導にひたすら情熱を注いできた。現在は会長として活動するほか、大阪籠球団とママさんチーム「オンマーズ」の監督も務める。一方で総連大阪八尾柏原支部副委員長、東阿八尾柏原商工会副会長、大阪朝鮮高級学校教育会副会長という顔も持つ。同胞社会においては、「サッカー、ラグビーに比べるとまだまだ。同胞たちにバスケの楽しさを知ってもらうためにもっとがんばらなあかん」と語る。

みんなで達成する楽しさ

 小学校から日本学校に通い、中、高まで、バスケに明け暮れた。

 「小学生の頃、背が小さくて子ども心に『大きくなりたい』と思って始めた」。そして「うまくなりたい」一心で練習に励んだ。中学1年の時、体力づくりを兼ねて新聞配達のアルバイトを1年間続けた。そのかいあってかメキメキと頭角を表し、中3の時には主将を務めた。ポジションはガード。ゲームを作る花形だ。当時、府大会決勝戦にまで進みそのまま優勝した。そして全国大会扱いとなった近畿大会に出場したが、1回戦で敗退した。実力を買われ高校に推薦入学。「朝の練習は当たり前。放課後の練習が終り、夜間に体育館が空いていると夜の9時過ぎまで練習した。毎日その繰り返しだった」。

 高校では、全国大会に一度も出場できなかった。それでもバスケが好きでやめようとは思わなかった。

 「一人で戦うよりもみんなで何かを達成すること、自分の力で選手をどのように動かすのかなどと考えるとゲームが楽しくなる」

大音楽舞踊叙事詩に「感動」

康会長とオンマーズのメンバー

 高校卒業後、実力を買ってくれる大学への進学も考えたが、そこまで気持ちが乗らず断念。2年間、働きながら勉強をした。そんな日々を過ごしていた康さんに、人生を左右することが起きる。ある日、オモニに呼ばれ「一緒についてきなさい」と同行した場所が、1967年に大阪で行われた「大音楽舞踊叙事詩」だった。オモニは女性同盟大阪、中東支部(現在は八尾柏原支部)で委員長を長く務め、80を超えた今も水彩画を描いている李賛英さん(83)。「公演は正直驚いたし、とても感動した。公演を見て『自分はどないころんでも朝鮮人』なんやと思った」。

 そして、翌年の68年に朝鮮大学校理学部(当時)に入学する。「バスケットボール部に入ろう」と自然に思ったが、編入班は最初の「70日間」はクラブには入ってはいけないことを知る。ウリマルをマスターする期間があったためだ。それなら「絶対に話せるようになったるって必死だった」。

 もう一つ、ショッキングなことがあった。当時、朝大には体育館がなかった。「正直ショックだったけど、部に所属して仲間とバスケを校内の小さな野外練習場で楽しんだ思い出は忘れられない宝物」。

 大学卒業後、「自分の人生、現役ではたかがしれていると思い、指導者としてバスケットボールの普及に携わりたい」と強く思い始める。

3つの敵に勝て

大阪籠球団のメンバーと年に1回行った海水浴で(前列左が康さん。1984年)

 大阪朝高旧校舎の最後の年1972年、同校の教員として赴任。すぐにバスケットボールの監督として男女チームを指導した。

 学校に文化会館がなかったため、練習はずっと運動場だった。「これじゃ実戦で不利になる」と思い、毎週木曜日に公共の体育館で夜の9時まで練習させた。休みといえば正月の3日程度。

 結婚後も「家族サービスなんてあったもんじゃない。私のスケジュールを聞いて、家庭の予定がすべて決まっていたくらい」。

 練習中には「バスケの虫になれ。好きじゃないなら今すぐやめろ」と檄を何度も飛ばした。「バスケの練習、試合があるなら教員の集まりは全部抜けていた。任されたバスケ部員には本気で接した」。

 一方で12年間、担任を受け持った。強面の先生だったが、当時の教え子たちとは今もつながりが深い。

 当時をこう振り返った。「経験者が少ないから、イロハを教えるのが本当に大変だった。厳しかったと思うがしっかりついて来てくれたし、生徒の目は輝いていた」と、今では仏のような柔和な表情で語る。

 「バスケをするには3つの敵に勝たないといけない」との持論を生徒たちに教えた。「1に対戦相手、2に自分のライバル、3に弱い己の心」。

 日本の公式試合などに参加できず、「在日朝鮮学生中央体育大会」が唯一の目標だった。女子を2回優勝に導いた。「教え子たちにバスケの楽しさを存分に教えることができた」と自負する。

後代に夢与えたい

 36歳の時、後ろ髪引かれる思いで教員生活に終止符をうった。5年間、コンピューター関係の勉強をしながら仕事をし、事務所を構えた。「それでもバスケに携わりたい」。

 仕事をしながら大阪籠球団の監督となり、今に続く。また、「オンマーズ」の監督としてチームを指導。第22回の全国ママさんバスケ交歓大会から3年連続で全国大会に出場させ、04年はブロック初優勝を果たした。ここに所属するメンバーのほとんどが康さんの教え子たちだ。「家庭を犠牲にしてまでも普通はバスケなんてできない。みんな本気モード。ここにいるオモニたちこそバスケの虫」。「オンマーズ」の活躍がバスケを継続することの大切さ、組織、協会の一つの形を示したのだった。

 そして今後、底辺から強化に努める構えだ。現在は東京、大阪、京都、兵庫、神奈川の5つの籠球協会があるが、「今年は愛知、その後は埼玉、九州でも協会を設立させる予定だ。後代に夢を与えられる協会を作り、地域ごとの温度差をなくしていきたい。バスケの普及とともに強いチーム、選手を育てたい」。

 いつか中、高のウリハッキョが全国大会にいけるよう強化に努めたいと語る。そして昨年11月に開幕した日本プロバスケットボールリーグ(BJリーグ)にも在日初のプロ選手が出てくれることを切に願う。

 「学生たちのレベル向上、委員会の設置、強化指定選手の選出、17歳以下での国際大会や北南朝鮮との合同練習、指導者育成に向けたプランの作成など、具体的な方向性を立てて動いていきたい」

 「在日バスケの普及と発展」−これが現在の康さんにとって一番の夢だ。(金明c記者)

[朝鮮新報 2006.5.11]