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〈解放5年、同胞新聞事情−D〉 170種の在日同胞紙

 解放5年間の在日同胞新聞発行は、困難を極めていたことについてすでに記した。今回は、若干それを具体化してみる。

 敗戦後、日本社会が混乱していたことは周知の事実である。住宅、衣服、食料などあらゆるものが不足していた。新聞発行のための用紙も当然不足していた。GHQの指示のもとで情報局(日本政府の担当部局は何度も変わる)に「新聞ならびに出版用紙割当委員会」が設置され(1945年11月26日)、新聞部会では定例会議で翌月の用紙割当を行ったという。1946年「5月には新規申請紙に対する性格の検討を行いいくつかの新聞に対して用紙割当の中止または減配の非常処置を断行して、需要面の拡大を押さえ」ている(日本新聞協会十年史、1956年発行)。

用紙割当決定を報じた「日本新聞報」

各地方の朝聯新聞

 日本の新聞用紙事情がこのようなときに、在日朝鮮人が全国紙と地方紙あわせて170種以上の新聞を発行していたという事実には驚く。

 新聞用紙割当委員会は5月15、16日、朝鮮関係新聞は申請中のもの、既刊中のものを含めて相当数に達するが用紙事情のために3紙のみを承認する、将来ならびに既存ものはすべて3社のいずれかに合流することを勧告すると決定している(「日本新聞報」1946年5月27日、日本新聞聯盟)。日本当局が認めた3紙とは、「朝鮮国際タイムス」(東京都、日刊、10万部)、「大阪朝鮮新聞」(大阪、日刊、10万部)、「朝鮮民衆新聞」(東京、月6回、2万部)であった。3紙にしたこと、用紙の割当枚数など日本当局の意向は不明である。朝聯などの機関紙には割当もせず、「朝鮮民衆新聞」はいわゆる「左傾的」な新聞であり、ほか2紙は後の「民団」系であったのでそのような枚数配分をしたのではないかと思える。

 さて、当時の新聞発行部数に関しては意見もあるようだ。たとえば前出の「民青時報」が11号から25号まで31万5000部発行されたとなっているが、一度で1.5〜2万部発行したことになる。割当がない新聞用紙はヤミなどで購入するしか方法がない。とすると大変な資金と労力が使われたと思う。 朝聯の新聞ばかりでなく当時の新聞発行部数は、誇張されていたのではないかと主張する人もいる。発行部数を誇張して報告することで用紙獲得を有利に進めようとしたのかもしれない。しかし朝聯時代は、「『用紙』(これはわれわれの宣伝活動の致命的要素である)…など無数の宣伝手段」は当局の手中にある(朝聯15回中央委員会議事録、1948年7月26〜28日)として対応せざるをえなかった。

 解放新聞社は、「用紙獲得に全力を 同胞一人ひとり抗議しよう」(同紙1949年4月21日)などと実情を説明し、新聞用紙割当委員会に抗議ハガキを送ろうと訴えている。

 人材難も新聞発行の妨げになった。植民地時代に新聞業務に携わった人もいた。前掲の金桂淡氏もその一人である。しかし新聞発行の必要性は認識しても、記者、編集者がほとんどいなくて手探りではじめたところが多かったようである。在日朝鮮人の中では求人できず、朝鮮本土から記者を呼び寄せて新聞を発行したところもあった。その中には後に朝鮮新報社の幹部になった人もいる。

 新聞用語に関しても、盛んに論議されていることが朝聯の会議録などからもうかがえる。とくに金日成主席の会見(1948年12月23日)を受けた共和国創建在日朝鮮人慶祝団が日本に帰った直後に開催した朝聯中央委員会第17回会議(1949年2月)では、「朝聯中央時報」を朝鮮語で発行することを決めている。論議の過程を見ると、朝鮮語の読解力などを参酌すると日本語刊行が好いのではないか、機関紙が朝鮮語は当たり前で異論がない、日本人民と共同でたたかうには日本語がよいなどとの意見が交わされた。当時の活動家の証言によると、朝鮮語が巧みな人も少なかったようだ。そのために朝鮮語での新聞発行が容易ではなかった。

 また当時は、朝鮮語の活字を入手することが難しく、朝鮮語活版を取扱うことのできる人も少なかった。記者、編集人、活版工、配達担当、通信員などすべての分野で人材不足であった。

 財政難は確認するまでもないと思う。「民衆新聞」特集号(1945年10月15日、2回目の発行)では、「本社創立を祝賀してくれた方々」として氏名と金額を記している。「朝聯中央時報」「解放新聞」など諸新聞は、財政の危機的状況を訴え、購読料の完納、前納を呼びかけ、また寄付を求めている。

 解放5年間、在日朝鮮人の情報、報道手段で最も主要な役割を担ったのが同胞新聞であった。用紙難を除けば、こんにちも人材、財政などで難しい問題が多々あると思う。「民衆新聞」「解放新聞」「朝鮮民報」「朝鮮新報」と続いた同胞の新聞伝統は、困難を乗り越えて同胞の目となり足となり同胞の生活と運動を記録し、けん引する力強い手段として継承されている。なお紙面の都合で、「朝聯地方本部新聞」(写真参照)などに関しては別の機会に譲る。(呉圭祥、在日朝鮮人歴史研究所研究部長、おわり)

[朝鮮新報 2006.4.11]