朝青大阪学生会の2人 朝鮮大学校に入学、チョソンサラムとして生きたい |
「アニャシミカ」―まだ、ぎこちないウリマルで話す朝青大阪学生会出身の呉美耶さん(河北旭都学生会)と金佑美さん(東成学生会)。2人は今春、木蓮の花咲く朝鮮大学校の門をくぐった。日本学校からの「編入班」として、朝鮮の言葉と歴史を学ぶ。夢と希望を抱く2人に「チョソンサラムとして生きること」について聞いた。 呉美耶さん 朝青活動家に 呉さんは、短期学部生活科学科(2年制)で学ぶ。卒業後は生活科学科での知識を活かし、地域朝青の活動家として学生会、同胞のために働きたいという。
朝大進学に反対していたオモニも、最後は背中を押してくれた。親身になって助言してくれた朝青活動家らも、「最後まであきらめずに良かった」と自分のことのように喜び、心の葛藤を労ってくれたという。 「本名」への思い入れ。 呉さんは、中学3年の頃、2歳上の姉とサマースクールに参加、初めは「知り合いが姉だけで、不安だった」。そんな不安を取り払ったのは文化公演。とくに演劇で肩を組み、泣きながら歌っている学生会メンバーの姿だった。心に刻んだという。 高2の6月頃、サマースクール文化公演の演劇出演依頼を受ける。「堂々と生きたい。(演劇で)何かを変えたい」と出演を決意。演劇練習後には「創氏改名」などについて討論し、自らも勉強、自分の名前についていろいろと考えた。 そして朝鮮人と日本人が互いに認め合い、自身が明るい未来を開くために「本名宣言」したいと思う。親には反対されていたので半ばあきらめていたが、「自分なりの」本名宣言を模索した。日常生活で名前を記入する際には、それまで「呉山美耶」と書いていたのを「呉美耶」と明記、「さ細だけど朝鮮人としての自分を認めてもらいたかった」。 高3のサマースクール。今思っていることをそのままに打ち明ける雄弁大会で、どうしても「これからの部分」が言えなかった。進路は「就職」と決めていたのに…。 ばく然と朝大への憧れは抱いていたが、11月、朝大学園祭に行った時、すっきりした。内定していた就職を断った。それぐらい「(朝大は)楽しそうで、行きたいと強く思った」。 呉さんにとって学生会は「裸の自分でいられる空間」だという。朝大ではそれを常に感じられる。そんな朝大に行きたい―日増しに思いは募った。
自身の人生観を変えた学生会で出会った、地域朝青オッパ、オンニらの存在は大きかった。「朝青のオッパ、オンニらと出会わなければ、日本人として生きていた。朝大進学も決めていなかった」。 先月、朝高生と共に出演した文化公演「ナヌン チョソンサラミダ!」のあと、「チョソンサラムとして生まれてきて良かった」(劇中セリフ)と心の底から思ったという。 「立派な地域朝青活動家になるため、2年間でウリマルと歴史をしっかりと学び、資格を取りたい。2年制の短期学部で4年分、いや8年分楽しみたい」 金佑美さん ウリ保育士として 「学生会が無かったら、先が見えなかった」という金さん。朝大進学は家族、朝青活動家はじめいろいろな人に薦められた。それよりも「朝鮮人やのに朝鮮のことを知らなあかん」という思いが強かった。同胞の中に身をおき、これまでとは異なる場所で自分自身を高めたかったという。 それでも迷いがあった。「一人っ子なので親が寂しがるし、幼い頃からアボジとオモニは将来自分が支えていくつもりだった…」。それだけに、「親元を離れ、朝大進学を許してくれた親に感謝したい」。 金さんは、幼い頃から保育士になるのが夢で、教育学部保育科(2年制)に進む。卒業後の夢は、地元に戻りウリ幼稚園の教員になることだ。日本社会で培った知識を活かし、同胞社会に取り入れたいという。 学生会は、一生同胞の中で生き、同胞とふれあう仕事に就きたい、と考えるようになった場だという。 活動に参加するようになったのは高2のサマースクール。「演劇、討論などでトンムが親の反対を押しきって、本名の大切さを泣きながらに訴えていた。衝撃的だった」。 高3のときのサマースクールでは、「なにか」を伝える側として演劇に出演。見る人に伝えるための「なにか」を探すため、資料を漁り、本を読み、昔の話に耳を傾けた。そして人生について考えた。セリフ中にも登場する「従軍慰安婦」についてなど、戦争体験者である親せきが涙ながらに話してくれたこともあった。自身のアイデンティティと向き合っていた。 去年の朝大学園祭で、編入班の先輩はじめ朝大生と話す過程で「行きたい」という思いが固まる。それまでも、東成をはじめ朝青活動家がいつも見守ってくれ、話を聞いてくれ、幾度となく励まされた。 朝大では「一生大切にできるトンムを作りたい。そして『ウリ保育士』としてがんばりたい」とまぶしい笑顔で語った。(李東浩記者) [朝鮮新報 2006.4.11] |