大阪・東生野 夜間中学卒業したハルモニたち 「初めて人間扱いされた」 |
極貧、働き詰めの半生、学ぶ夢胸に 3日、大阪市生野区にある生野東同胞生活センターを訪ねた。東生野夜間中学校を卒業したばかりの高己南さん(78)と玄必寿さん(79)、そして、本紙に手紙をくれた呉貞子・同女性同盟支部顧問(69)が待っていてくれた。
高さんは71歳の時から8年かけて卒業した。毎週月曜日から金曜日まで、日課は午後5時から8時50分までの4時間授業。科目は全日制と基本的には同じ。数学もあれば英語も、社会も理科もある。「学んで一番よかったことは何か」と聞いてみた。 「闇夜で光を見たような、視野が広がって、世界がまるで明るくなったような気がする」と話してくれた。 9年かけて卒業した玄さんも「オモニのお腹から出てきてはじめて学校の門をくぐった。その喜びは言葉に表わせない」と言葉を詰まらせた。 学べなかったために、異国日本で暮らすうえで、困ったことや、不便に泣かされたことは一度や二度ではない。高さんは子どもが幼い頃、病気にかかったとき「受付で子どもの名前を書けなかった体験」を悔しそうに話す。 玄さんは「バスや電車に乗っても字が読めなくて、いつも緊張していた」と話す。いまは、逆に電車に乗っても駅名がスラスラ読めるし、他人に聞くこともないので本当にうれしいと目を輝かす。
高さんは1929年、済州島で生まれた。8人兄弟の上から3番目。8歳で大阪へ。「ニンニク臭いとよくいじめられた。学校に行きたかったが、アボジが亡くなって、それどころではなくなった」。8歳の頃から子守り奉公に出されて以来、高さんはずっと働き詰めの人生を歩む。 やがて日本は太平洋戦争に突入。「一間に9人家族がすし詰め状態で暮らした。アボジがいないので疎開する力もない。空襲にあっても逃げる場所もなかった」。 18歳の時に13歳年上の同胞と結婚し、やがて4男3女に恵まれた。ウリハッキョに子どもを通わすために、懸命に働いた。ミシン一台で暮らしを支えるため、ヘップや婦人服、ズボン縫い、あらゆる仕事をこなした。ほとんど寝ないでミシンを踏み続け、それでも朝起きて、七つの弁当を作り、子どもを学校に送り出した。 「米びつがカラッポで、家に10円もない日が続いても、夫が夜、客を4、5人連れてくると、何としてもお酒を買ってもてなさなきゃいけない。近所の人たちにお金を借りて、子どもを酒屋に走らせて」 あまり仕事好きではなかった夫だったが、高さんは、その夫への思いを「あの人のおかげで、一回りも二回りも大きくなることができた。何だってできるように引き上げてくれた」と語る。お金で苦労させられた分、「やりくりでは誰にも負けない。学校でも数学が一番できた」と笑い飛ばした。
10年前に亡くなった夫は、死の直前、長男を枕元に座らせ「君のオモニはずっと働き続けた人だ。私が死んだら、オモニを楽にしてやりなさい」と言い残した。 子どもたちは父の遺言どおり、オモニがこれ以上働かないように、夜間中学に通う日々を温かく見守り続けた。 玄さんは1927年、済州島生まれ。8歳でオモニが亡くなり、12歳で大阪へ。 「アボジが書堂の先生だったので、ウリクルと算盤はアボジに習った。でも、日本に来てからは、アイロン掛けの仕事からネジ作り、結婚してからはくず鉄拾い、ミシン縫いなどあらゆる仕事をした」 19歳で結婚した2歳上の夫は大のギャンブル好き、酒好きだった。7人の子どもが生まれても、その性癖は変わらなかった。 「あまりにも辛くて、子どもの手を引いて川べりまで行ったこともあった」と振り返る。 「働いても働いてもお金がない暮らし」の中で、子どもをウリハッキョに通わせたことが喜びだったと語る。ミシンを踏み続けて、一睡もしないオモニを案じる子どもたち。それでも夫は妻が稼ぐわずかなお金を持って酒を買いに行ったという。 「朝鮮戦争の頃は、くず鉄ブームだった。お産のあとに、池に入って鉄くずを拾って、家に帰るとタンスの着物がみんな質屋に入っていたこともあった」。それでも絶望せず、家族を懸命に支えた。そして、71歳になってから9年間、夜間中学に通った。 「辛いことも全てを忘れて勉強に没頭できた。人と同じように座って勉強して、初めて人間扱いされた」としみじみと語る玄さんの壮絶な人生。そんな夫も年と共に円満になり、初めて心静かな時間を取り戻した。 高さんも、玄さんも学ぶ喜びを知って、「長生きして本当によかった」「カラオケで字が読めて、何にもうらやむことはない」と破顔一笑した。 苦難に満ちた激動の時代に、逆境をバネに強く生きたハルモニたちが、やっと手にした字が読める幸せ。 最後まであきらめない不屈のチャレンジ精神に、心からの祝福を。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2006.4.8] |