〈夢・挑戦−在日スポーツ人〉 東大阪朝中サッカー部監督 朴秀勇さん |
大阪市生野区に位置する東大阪朝鮮中級学校。全国の朝鮮中級学校の中で生徒数が一番多く、「マンモス校」と呼ばれている。同校サッカー部は朝鮮学校の中でも言わずと知れた強豪。地域で行われる数々の日本の大会も制し、中体連主催の大会に朝鮮学校の参加が決まった1997年に、全国中学校サッカー大会(以下全中)出場を決める快挙を成し遂げた。05年には二度目の出場、大阪で強豪校として名を馳せ、確固たる地位を築き上げた。17年間、このチームを指揮しているのが朴秀勇監督(37)だ。「強いチームを作るというよりも、教員としての立場からサッカーを通じて朝鮮人としての誇りを持った生徒を育てあげることが一番大切」とつねに心がける。 長かった「全国」への道 97年8月7日、和歌山県那賀郡。同校サッカー部は、「全国」のキップをかけた近畿大会の会場にいた。大会には2府4県から12校が参加し、5校だけが全国大会に出場できる。近畿には約1000の中学校があるというから、勝ち上がるのは相当厳しい。 東大阪中級は、初戦の七条中学(京都)を1−0で退け、2回戦の甲西北中(滋賀)との大一番に臨んだ。立ち上がりから優勢にまわった東大阪は2−0で完勝し、全国初出場をものにした。同大会決勝で敗れたものの、全中「元年」にして堂々の近畿大会準優勝、全国初出場を果たしたのだった。民族教育史に新たな1ページが刻み込まれた。 「やっと実現した。本当に長かった…」。長年の苦労が走馬灯のように朴監督の頭をよぎった。この時、頬に自然と涙がつたった。 家族に支えられ
朝鮮大学校師範学部体育学科(当時)を卒業後、東大阪中級に体育教員として赴任すると、すぐにサッカー部監督に就任した。弱冠20歳。 東大阪第2(現在の東大阪初級)、東大阪中級、大阪朝高でサッカーに明け暮れた朴監督にとって思い出深い大会は「在日朝鮮学生中央体育大会」だ。監督になってからも、当時の選手らの目標は変わらないままだった。日本の公式試合に出られない朝鮮学校には、夏の「中央大会」しか大きな目標がなかった。 「中級部のサッカーに『これが正しい』というのはなくて、当時はいろいろ模索していた」 練習とともに「選手たちにもっと機会を与えたい」という一心で土日は欠かさず試合を組んだ。休む間はなかった。それは98年の結婚後も変わらなかった。 「土日はほとんど休みなく練習、試合、遠征をこなした。家にいる時間が少なくて、家族と遊びに行く時間はほとんどなかった」。そんな生活が続いても妻と子どもたちが理解を示し応援してくれたという。現在、3人の子ども(麗洋7歳、勇貴5歳、勇志3歳)がいる。子どもちが、「アボジはなぜいつも家にいてないの?」とオモニにいつも尋ねていると知って胸が痛かったと話す。 しかし、「最近は試合の朝に『アッパ試合がんばってきてね』とか、試合を終えて帰って来た時は、『お疲れさん、今日試合勝ったん?』と聞いてきたりして、勝ったときはいっしょに喜んでくれる姿を見るとすごくうれしく、励みになっている」。 惜しみない努力
同校がこなす試合数は年間200回。この驚異の数字の裏には、「全国」への道が閉ざされていた同校へ手を差し伸べてくれた日本学校の惜しみない協力があった。 監督になった翌年の91年、「全国にはつながらない」条件で初めて公式大会参加が認められた。 「この間、公式戦参加と同時に練習試合で日本の中学校と親交を深めて、一つひとつ関係を築いていった」 当時、全中に4年連続で出場していた吹田6中の良澤秀樹監督(45 現、千里丘中学FC監督)からの練習試合の申し込みで、定期的に試合を行ったこと、15年前から参加している福井丸岡フェスティバルも朝鮮学校の格好のアピールの場になった。初めて大会に参加したときは、福井新聞にも紹介され、現地の同胞らも応援に駆けつけてきた。同校は第15回大会で初優勝を果たした。93年には、府の秋季大会に初出場して初優勝。それから幾度となく市、府の大会に出場し実績を残したが結局は「大阪」という小さな範囲内。選手たちは勝つ喜びの反面、「自分たちの力がどこまで通用するか試したい」とやるせない思いが胸を打った。 「なんで『全国』へ行けないんだろうと、この頃から自分も選手も強く思い始めた。選手たちに持てる力を発揮できる場を与えてあげたかった」 日本関係者の協力 悔しい思いをする同校生徒らの思いを汲み取り、行動を起こしたのが大阪の日本学校の関係者らだった。大阪市中体連でアンケートを作成し同市の約100校に送ると、大多数の学校から「全国大会参加を承認すべき」と賛成の答えを得た。 これが95年春の府中体連の総会で提起された。1年後の96年2月、中体連主催の大会に97年から朝鮮学校も出場できることが決まったのだった。「徐々に広げた関係が大きく実ったのだと実感した瞬間だった」。 全国初出場の97年は1勝に終わったが、「全国制覇」を心に誓ってグラウンドを後にした。そして昨年、山梨で行われた二度目の全国大会でも1勝で涙をのんだ。しかし、会場では大阪市の先生たちと協力して作った「イギョラ! 大阪市 心は一つ 戚移虞 神紫猿獣 原製精 馬蟹」と書かれた横断幕がなびいた。この横断幕は毎年大阪代表校のために持ち回りで使うことになっている。 「日本の中学生、先生たちが応援してくれる光景が目の前に広がるなんて、昔は考えられなかった。日本の中学校関係者の協力なしには、今の東大阪中級サッカー部はない」 礼儀正しいチームに 今も昔も変わらない練習の基本ベースは「ボールを止めて蹴る」こと、同時に「走る」ことにも重点を置く。そして、サッカーを通して生徒を育てる「教員としての姿勢」をつねに忘れない。 「すべてにおいて基本は一にあいさつ、二に礼儀。ウリハッキョの誇りと自負心を持って、グラウンドに出れば礼儀正しいチームであれといっている。強くて良いチームというのは、個々人がすばらしい人間として準備していることでもあると思う」。そして、「将来、同胞社会で生きていくうえで、朝鮮人の誇りを持って堂々とどんな分野でも活躍できる人材を育てていきたい。生徒たちは潜在的な力を持っている。『サッカー』はそれを引き出すための材料」と語る。 「強いチームよりも良いチームを作ること」―朴監督のモットーだ。(金明c記者) [朝鮮新報 2006.4.6] |